自己を見つめる:非我、無我について(仏教エピソード38)

非我や無我は、仏教でよく出てくる言葉の一つ、そして誤解されやすい言葉です。

そもそも、我という言葉自体も、日本語と仏教の間に齟齬があります。

我について

我は、日本語で、われ、自分の意味を指す場合が多い言葉です。

しかし、経典・仏教書等の中で「我」という文字が出てきた時には、注意が必要です。仏教の「我」には、atman(アートマン)という意味合いが含まれている場合があるからです。

「アートマン?」と聞きなれない言葉に首をかしげる人も多いのではないでしょうか。無理もありません。

アートマンは、お釈迦さんが生きていた時代、古代インドの思想です。その思想は、当時のインドでは一般的に広まっていた思想、いわば常識となっていました。

アートマンとは?

「自分は何者か」「自分は何なのか」

皆さんは、このような疑問を抱いたことはあるでしょうか。

現代だけに限らず、その疑問は、どの時代、どの場所でも様々な人が考える所です。そしてそれは、お釈迦さんが生きていた時代、古代インドも例外ではありません。

そして、古代インドでは、それらの疑問に対する応えとして「自己の正体はアートマンである」ということが説かれていました。

アートマンこそ自己の正体。そして、それは永遠不滅、絶対的で、自己の本質、真実の自己。例え、全てを失っても、その真実の自己だけは永遠に残り続けると信じられていました。

私が初めて大学の講義で、アートマンの話を聞いた時は、このように解釈していました。

例えば、絶対に書き換え不能で劣化しないメモリカード(ex. SDカード)があったとします。今使っているパソコンにもそれが内蔵されています。そしてこのメモリーカードこそが本体なのです。

たとえパソコンが壊れたとしても、新しくつくったパソコンにそのメモリーカードを組み込めば、機能的に様々な変更点はあれど、本質的な所は、前のパソコンと何も変わっていないというわけです。

(余談ですが、大学の講義を聞いた時、私はあまりパソコンに詳しくなかったので、上記の説明にもある程度合点がいっていたのですが、パソコンに詳しくなってくるとかえって違和感のある説明に聞こえます)

何にせよ、そのメモリーカードにあたる部分が人間にもあって、それを古代インドではアートマンと呼び、一般的な思想として広まっていました。

しかし、それに異を唱えたのが、仏教。お釈迦さんでした。

「自己はアートマン(我)ではない」とお釈迦さんは説きました。

これが、漢字に訳されると、非我や無我という言葉になっています。

仏教の説く、非我や無我の「我」には、このような背景があることを理解しておく必要があります。

無我・非我=自己を見つめる

当時、古代インドでの一般常識は「自己の正体はアートマン」でした。しかし、お釈迦さんは、そんな世の中で「自己はアートマンではない」と説いたわけです。

世間一般の人達が想像もしない話。そんな話に耳を傾けてもらい、また理解してもらうためには、並々ならぬ労力を要します。当然、その説明も丁寧にしていかなければなりません。

その様子は経典の中からも読み取ることができます。以下は、阿含経の中で無我や非我について説いているものの要点をピックアップして、自分なりに編集、意訳してみました。

エピソード(雑阿含経巻第1及び第10、増一阿含経巻第14-4より総集)

ある時、お釈迦さんは、弟子にこのような話をしました。

「あなたの目の前にあるものをごらんなさい。今、目の前にあるそれは、ずっとそこにあるわけではありません。

いつか、朽ちる。或いは、壊れる。そのようにして、今ある形では、なくなってしまいます。

あなたの目の前にあるもの、あなたの目に映るすべてのもの、人も物も、全ては変化しています。

目に映るものだけでなく、あなたの心や頭の中もまた、時に悲しく、時に楽しく、心はコロコロと大いに変化します。

考える事、思う事、察する事、あなたの頭の中は、その一瞬一瞬で変化しています。

いつまでも変らずにあるものなんてない。常にずっとあるものはない。これを無常と言います」

無常について話し終えたお釈迦さんは、次に弟子にこう問いました。

「あなたの目に映る全て……。自分自身もまた例外ではありません。

自己を見つめてみてください。

あなたの目に映るあなた自身。あなたの身体は日々変わり続けています。

病気や怪我をすることもあれば、それが治癒していくこともあります。日々成長し、また老いています。細胞が生まれ、そして死んでいきます。

あなたの思うがままに応えてください。

あなた自身、その身をじっくりと見て、それらは永遠に変わらず常なるものだと観ますか。それとも、それとも常ではない、無常だと観ますか?」

その問いに弟子は応えます。

「無常と観ます。常なるものはありません」

それを聞いてお釈迦さんは、次にこのように問いました。

「あなたは、あらゆるものは変化していると観察しました。無常を観て、あなたはどのように思いますか。それはあなたにとって、苦しいと感じますか?」

弟子はこう応えます。

「確かに、苦しいと感じます」

弟子の答えを聞き、お釈迦さんはこう言いました。

「苦しいと感じるのであれば、それは変わっているという証拠です。

何も変わらないのであれば、常に同じ状態、常に一定の状態のはずです。

しかし、他ならぬあなた自身が苦しいと感じているのです。ならば自己の正体は、永遠不滅、絶対的、自己の本質、真実の自己と言われるアートマンではありません。

自己を見つめてみてください。

例えば、病気になったのなら苦しい、それは事実です。健康にある状態が変わるという事は、健康を失うということでもありますから……。それは苦しい事だと思います。

だから、病気にならないようにと願うことがあるのです。もし病気になったとしても、今度は病気を治るようにと願うわけです。そして何より、病気を治すことだってできます。

もし、何も変わらないのであれば、病気を苦しいと感じることはありません。そもそも病気になりません。病気があるとしても、治そうとは願いません。病気があるとしても、治すことはできません。

他ならぬあなた自身が苦しいと感じている事こそが、変わっているという証拠です」

お釈迦さんの話は続きます。

「自己を見つめてみてください。

目に映るものだけでなく、あなたの心や頭の中もまた、時に悲しく、時に楽しく、心はコロコロと大いに変化します。

考える事、思う事、察する事、あなたの頭の中は、その一瞬一瞬で変化しています。

私たちが心と呼ぶもの、頭の中と言っているものもまた、無常です。あなたの感じることも、考えることも、あなたの内にあるものもまたすべて、無常です。

あなたの思うがままに応えてください。

あなたの心や頭の中、全て……。それらをじっくりと見て、それらは永遠に変わらず常にあるものだと観ますか。それとも、それとも常にあるものではない、無常だと観ますか?」

その問いに弟子は応えます。

「無常と観ます。常なるものはありません」

それを聞いてお釈迦さんは、次にこのように問いました。

「あなたは、あらゆるものは変化していると観察しました。無常を観て、あなたはどのように思いますか。それはあなたにとって、苦しいと感じますか?」

弟子はこう応えます。

「確かに、苦しいと感じます」

弟子の答えを聞き、お釈迦さんはこう言いました。

「苦しいと感じるのであれば、それは変わっているという証拠です。

何も変わらないのであれば、常に同じ状態、常に一定の状態のはずです。

しかし、他ならぬあなた自身が苦しいと感じているのです。ならば自己の正体は、永遠不滅、絶対的、自己の本質、真実の自己と言われるアートマンではありません。

例えば、色々な色の羽根を持ち合わせている鳥(斑色鳥※1)のように、自己もまた色々な色を持ち合わせています。

一色だけには見えません。実に色々な色を観ることができるでしょう。

心もまたそうです。中には、欲の色、怒りの色、無知の色、そんな悩ましい色もあります。時にはそれ一色に染まることもあるでしょう。染まれば、心悩み、苦しい。しかし清まれば、心清らかに……。

様々な色があるのにも関わらず、特定の色だけに執着すれば、あなたの心は染まります。

しかし、心は実に色々なのです。一色に染まることはないではありませんか。

他ならぬあなた自身に色々な色を感じている事こそが、変わっているという証拠です」

そして、お釈迦さんは爪の上に、ほんの少しだけ土をのせました。

「たったこれっぽっちの物でも、この世に永遠に変わらないものなどありません。

もし、この爪にのせたほんの少しの土でも、永遠に変わらないものがあるとしたら、私の教える道によって、苦しみを解決することはできないでしょう。

たったこれっぽっちの物といえど、この世に、常なるものはありません。

即ち、無常だからこそ、私の教える道によって、苦しみを解決することができるということも、どうか忘れないでください」

仏教において「自己を見つめる」ということは、とても大事な事です。

現に仏教には、自己に関する様々な観察を行っていますし、分析も行っています。それが教えとして伝えられています。(伊丹禅教室で、「三科」についての法話を行っています

それは「自己はアートマンではない」という事を理解してもらうためにも、「自己」が重要な論点になるということも、一つの理由になるでしょう。

しかしそれだけでなく「自己を見つめる」ということは、お釈迦さんの教えを理解する上でも欠かせないことだったのでしょう。それは「自灯明法灯明」という教えからも感じます。

以上のことから、無我や非我という言葉を端的に説明するのであれば「自己を見つめる」と覚えた方がいいと私は考えます。その方が、誤解も少ないでしょう。

無我・非我については法話も行っています。より詳しい話は、是非そちらで。


※1……斑色鳥、瑳蘭那鳥と言葉が経典(雑阿含経巻第10-267)には載っていました。調べた所、前者は文字通り、まだらいろの鳥、後者は中国語でシンビジウム鳥とありました。

シンビジウムという花があり、12月~4月に咲く多年草の花だそうです。様々な種類があって、花の色もたくさんありました。

また、鳥について調べてみた所、見る角度によって、様々な色に見える鳥も実在します。

ハチドリもそうで、私もアメリカ滞在中に見ました。あちらでは、ハミングバードと呼ばれています。

高速で羽ばたき(毎秒約55回らしい)、空中でとまる(ホバリングする)ことができます。その羽根の音が、ハミングするように聞こえます。

アンナハチドリというハチドリは、見る角度によって、頭の色が違う色に見えます。

構造色といって、シャボン玉で観る虹色と同じ現象だそうです。

心もシャボン玉みたいと言われると「なるほどなぁ」と思います。

ところで、この構造色ですが、身近な鳥では、鳩の首の所、緑と紫の所も同じく構造色らしいです。鳥によって違いがあるらしく、鳩は二色に限定されているらしいです。

ちなみに真っ黒に見えるカラスもこの構造色があります。確かに、虹色に見える時がありますね。

構造色である鳥は意外と身近にいるものです。

斑色鳥、瑳蘭那鳥がどの鳥を指すかは、残念ながら私にははっきりとした結論は出せませんが、インドならクジャクという線もあるのではないでしょうか。

最後までお読み頂きありがとうございました。
伊丹禅教室の茶話会等と同じく、ご意見ご質問等あれば、是非コメントをお寄せ下さい。興味深いご質問、ご意見は、それを元に記事にさせて頂きます。コメント欄は、下の「comment」ボタンより移動できます。コメント欄の使用方法、運用方針はこちらをご覧ください。よろしくお願いします。

 

更新情報の配信はこちらから

メールアドレスを記入して購読すれば、更新をメールで受信できます。