友人との再会

このあいだ、小~中学時代の友人から連絡をもらった。

その友人とは、中学以来、音信不通だった。

私は中学時代の出来事もあり、その友人のことは心の片隅で気になっていた。

だから、向こうから連絡をもらえたことが素直に嬉しかった。

そして、私達は久しぶりに会うことにした。

お店で久しぶりの再会。なんとなく当時の面影を感じる。

しかし、当時とはっきりと違うことが一つ。目が活き活きしていた。

元気そうにしており、2年ほど前から書を学んでいるという。

そこの学び場は、書が基本ではあるが、そこから絵も学ぶらしい。

そして、もう一つ気になったのが、仏教についても触れるということ。

彼の中に、中学時代では感じられなかった前向きな気持ちがそこにあったよう思う。

その友人は実は自分から積極的に私にアプローチしてくるようなタイプではないと思っていたので、今回連絡をもらったのもかなり正直困惑した。

「本当に本人なのかな?」と思ったほどだ。

しかし、私にも同じような経験がある。

もし私と同じような感じであれば、ここは会うべきだと思っていた。

そしていざ会ってみると、私がそう願った通りの様子だったので、本当に良かった。

私自身、ネット依存・ゲーム障害でひきごもりがちになった経験がある。いわゆる黒歴史だ。

今ではその経験も今の自分には欠かせないことだと思えるが、当時はそうは思えない。

仏教エピソード35話「大事な当たり前」でも触れているが、なんだか自分自身が壊れていくような苦しい日々もあった。

そういう状況の中で私も仏教と本当の意味で出会った。

もちろん、出会いは仏教だけではないのだけれども、それでも「仏教ってこんなこと言ってるのか!?」と仏教への認識も変わった時期でもある。

荒村寺の法話で話す事の大元は、この辺りの経験がないとおそらく話せないことだと私は思う。

法話を聞いて下さる方はわかるかもしれないが、私は仏教を、言い換えると、人間学、自分学、そんな風にも見ている。

その仏教の中身が、自分への向き合い方や生き方を考える上で、大いに参考になった。

もちろん、参考にする上で、失敗も多くあったけど、少なくともその失敗から学ぶことを助けてくれたのも仏教だ。

一般的に法事や葬儀のイメージである仏教。それは言ってみれば、葉の部分にすぎないと私は思う。

私は幹や根っこなど、そっちの方に目を向けることを知った。

もちろん、そうして葉がつくことも、木には必要なことではあるけれど、葉っぱだけが、樹ではない。

再会した友人が話す節々に、そういう中身、根っこ、幹、枝、などなど、仏教に触れる話をしてくれるので、本当に嬉しかった。

そしてそのきっかけをくれた場が、書。

そういう意味では、同じような経験と言ったが、彼と私とでは同じ経験とは言えない。全く違う経験だ。

それでも何か通じ合うものがあって、本当に再び出会えてよかったと思った。

中学当時、お互いが受けとめられなかったことを、時を経て受けとめあうことをができたのかもしれない。

そして、彼が書を学ばなければ生まれなかったこのような縁はなかったと思う。

私がこんなことをいうのもおかしいかもしれないが、書の先生方、そして、その場を作り上げている弟子の人達に、本当に感謝致します。ありがとうございます。

この記事をお届けした
荒村寺の最新ニュース情報を、
いいねしてチェックしよう!