変わりゆく代えられない過去

これは、アメリカの禅センターでの事です。私はその人とゲームの話をしました。

ゲームの話といっても、単なる趣味の話というだけではありません。私自身がネット・ゲーム依存だったということも含めて、話をしました。

概要だけなら、他の記事でも、時々触れている話です。

私自身はネット・ゲーム依存(ゲーム障害)の経験があり、あの頃の自分の事を思い返すと、とても複雑な感情が湧いてきます。

依存していた頃の私は、起きてから寝るまで、1日中パソコンの前で、ネットゲーム漬けの毎日を送っていました。

生活は乱れ、気がつくと、起きた時にパソコンの電源をつけずにはいられない、落ち着かない……。そうして内面までもが変わっていく。

なんだか自分自身が壊れていくような、そんな日々を過ごしていました。

自分でも、いい加減、それはまずいことは分かっていました。悪いことだとわかっていました。

しかし止められません。

止めよう、止めようと、何度も我慢しました。止めようと意識する。その最初の一歩ですら、相当な意志が必要でした。

それでも意志の力は長続きしません。結局はやってしまう……。そうして自分のダメさ加減に失望する日々が続きました。

仏教エピソード第35話より

その人も、辛い過去を持っていて、私に話してくれました。そして私も辛い過去を話しました。

辛い過去、嫌な過去、本当は触れたくもない過去。過去の自分。それはできることなら無かったことにしたい。そう思うのも、無理はありません。

私自身にもそのような感情がないかと言えばウソになります。

しかし、その一方で、今の私を成り立たせているのは、そのような経験、過去の自分があったからこそ。過去の出来事の全てが繋がって、今の自分がここにいます。

その事実が、過去の自分と向き合う気持ち、過去の自分が欠かせないと思える気持ちを私に与えてくれます。

そう思えるのは、仏教の縁起の話を知ったからでしょうか。いや、仏教を理解するにも、そういった経験が役に立っていると言えます。

ゲームから学んだ事

そんな話をしている中、その人は私に問いました。

「それなら、ゲーム自体から仏教に関して何か学んだことはある?」

「うーむ……。具体的にと言われるとなかなか難しいんですが、例えば、仏教では、名利に気を付けなさいという教えがありますよね?」

名利というは、簡単に言えば、名誉や利益ということでしょうか。

名声、名誉、それから財産、利権。そこに絡む権力などの力。地位。ステータス。

名声、名誉、称号といった、世間の評判をあげたいという気持ち(欲)に気を付けなさい。あるいは財力を築き、より多くより高くしていきたいという気持ち(欲)に気を付けなさい。権力、武力などの力をつけたいという気持ち(欲)にも気を付けなさい。

このような文言は、経典や仏教書などでよく見かける言葉です。

私にとって、この言葉はすごく素直に受け取ることができます。気を付けなければいけない。確かにその通り。それはゲームやっていたからこそ、素直に受け取れるのだと私は言いました。

しかし、それだけじゃないのです。もっと伝えたいことがありました。

私がはまったゲームの話

私が当時はまっていたゲームは、MMORPGというジャンルのゲームでした。

TweSweによるPixabayからの画像

MMORPGとは、ネット上(オンライン)で不特定多数の人達が同時にプレイできるロールプレイング(想像上の役割を演じる)ゲームです。

定義はあまりないらしいのですが、実際にゲームをやった感覚では、こんな感じでしょうか。

ゲームとして作られた仮想世界があります。その仮想世界はネット上にあります。

仮想世界といえど、ベースは現実世界と同じです。ゲーム内の時間ですが、時間の流れもあります。その世界では何をするのも自由です。ただし、やり直しはできません。

その仮想世界には、その世界の常識があって、歴史があります。世界観があります。もちろんそれは、システムや創作された話(歴史)で、他の誰かによってつくられたものです。

しかし、それは、人が頭の中で思い描いた世界を、ゲームとして作ることができるということでもあります。

ですから、自分は、まるで小説の中で語られているような仮想の世界で、パソコンなどを通じ、キャラクターを操作することができます。

その世界には、他にも自分と同じように、それぞれのキャラクターを動かしているプレイヤーがいます。

画面越しに見えるキャラクターは、AIが自動的に動かしているものもありますが、自分と同じように、他の誰かが動かしているプレイヤーです。

同じゲームの中にプレイヤーがたくさんいます。ということは、ゲームといえども、そこには人間関係があるということです。

そんな仮想世界で、自分のキャラクターを作り、操作します。そして一度、キャラクターを作ると、やり直しはできません。常に記録が上書きされていきます。

私がやっていたゲームは、基本的に、モンスターを倒して、レベルやお金を稼ぎます。

レベルは、自分の成長度合いといってもいいのでしょうか。モンスターを倒すごとにポイントが加算され、一定のポイントを稼ぐと、レベルがあがります。

レベル1よりレベル2の方が強い。レベル2よりレベル3の方が強い。数値なので、レベルでその人の成長度合いがわかります。知力、体力、筋力など細かな数値もあって、自分の能力が数値化、あるいは可視化されています。

レベルが高くなるほど強くなるというのが、目に見えてわかるわけです。

能力だけでなく、お金、所持品など、キャラクターの状態を示す情報を、ステータスといいます。

単純に、このステータスが高いほど、強いモンスターと戦えるようになります。強い武器など、所持できるものが増えていきます。ゲーム内で行くことができる場所が増えていきます。できることが増えていきます。

言い換えれば、ステータスが高いほど、そのキャラクターの価値は高くなります。

とはいってもゲームなので、やることは単純です。要はモンスターを倒していけば、ステータスは高くなっていくのです。

ゲームの楽しさ

私はこのMMORPGというゲームにのめりこみました。正直面白かったです。楽しかったです。

自分と同じようにゲームを楽しむ人達がそこにはいて、ゲームの世界の中で友達もできていきました。好きなゲームを、現実にいる他の誰かと一緒にできることが楽しかったです。

一日中、モンスターを倒して、レベルを上げて、お金を稼いで、良い武器を買って、所持品を増やして、キャラクターを強くしていきました。強くなるのも楽しかったです。

強くなったら、新しいエリア(場所)へ行けます。未開の地に足を踏み入れるのも、楽しかったです。

より遠くへ、より強く、より高く……。強くなるのも競争です。周りの人より、強くなったら、それだけできることが増えていきます。優越感です。楽しかったです。

基本クリック一つの単純操作で、キャラクターは成長していきます。目に見えて強くなっていく実感があるのも楽しかったです。

とはいえ、そう簡単な話でもありません。強くなるには、より強いモンスターを倒す、より貴重な武器や装備(所持品)を手に入れる必要だってあります。その難しさは、ゲームを運営する側で上手く調整してあります。難しければ難しいほど、手に入れた時は楽しかったです。

目的のものを手に入れては、そこからまた強くなるために、新しいものを手に入れようと考えます。次から次と、より良いものを手に入れて行きます。熱中していました。夢中でした。楽しかったです。

MMORPGに終わりはありません。常にアップデートされ、新しいものが追加されていきます。そのような楽しみは、常に用意され続けていきます。理屈の上ではそれはずっと楽しめるわけです。

ゲームの虚しさ

しかし、私はどんどん、レベルを上げて、ステータスを上げていくうちに、なんだか虚しい気がしてきました。ある時、ふっとその熱が冷めました。

おそらく、終わりが見えてきた頃だと思います。終わりのないはずのゲームなのに……。

その終わりとは「結局これが何になるんだ……」ということでした。今まで多大な時間をゲームに費やし、積み上げてきたステータスや強さが、最終的に何になるのか……。

ゲームをするのは楽しいはずです。楽しかったはずです。なのに、楽しくありません。やればやるほど、虚しくなってしまいました。

「ならば、やめればいいじゃないか」という話ですが、今まで積み上げてきたものを、自分が多大な時間を費やしたことを、無かったことにするというのも、そう簡単にできるものではありません。

確かに虚しさを感じる一方で、ゲームは楽しいのです。面白いのです。ゲームに集中している間は、その事をは忘れてしまいます。やはり、ゲームは好きなのです。

やめるということは、全てを捨てるということです。苦労して積み上げてきたものも無くすということです。そこで感じた楽しさを無くすということです。

好きなゲームが、好きな事が、もうできないということです。

やりたいのに、やめたい。やめたいのに、やめられない。やめられないのに、やめようとする。やめようとするのに、やめたくない。

こうして、楽しい、楽しいとおもうがままにやってきたゲームが、同時に虚しい、虚しいと感じるものになっていきました。

そして、そんな煮え切らない自分自身に対して「自分は何をやってるんだ……」と失望感が生まれ、やがてそれが、それでも止められない自分自身への怒りや不安へとつながっていき、気がつくと、記事の冒頭で触れたような状態になっていました。

ステータス×仏教

例えば、ゲームの中にあるステータス。これが高くなっていくことで、強くなる。価値が高まる。より良くなっていると実感することができます。

私はステータスという言葉をゲームの中でしか使うことしかありませんが、英語で “status” は地位や身分を表します。日本語でも社会的地位という意味だそうです。

名声や称号、財力や権力、地位など……、それらはすべて、ステータスといってもいいでしょう。

もちろん、ゲームのほうがシステム(仕組み)としてその世界が構築されている分、現実より簡単に明快にスタータスが高まる満足感を手に入れることができます。

しかし、ステータスは、ゲームの中だけに存在する事でしょうか。現代社会の中に、このようなステータスがないとは言えません。

名声、名誉、称号といった、世間の評判をあげたいという気持ち(欲)に気を付けなさい。あるいは財力を築き、より多くより高くしていきたいという気持ち(欲)に気を付けなさい。権力、武力などの力をつけたいという気持ち(欲)にも気を付けなさい。

仏教でよく見かける言葉、名声、財力、権力、地位。これも端的にいえば、ゲームでいうステータスと似たようなものだと私は思うのです。

そのステータスを高めていくことに必死になるとどうなるか。仮にうまくいったとしてもどうなるか……。それは痛いほどよくわかります。

あの時の虚しさや失望感、不安感、絶望感……、色んなことを思い起こします。私は仏教でいう名利というたった一つの言葉から、様々な感情や出来事が脳裏の浮かんできます。

そんな経験があるからこそ、仏教がこのようなステータスに気を付けなさいと、名利から離れなさい、という言葉が、素直に自分の中に入ってきます。よくわかります。

しかし、痛いほどよくわかるからこそ、事はそう単純なことでないともまた言えるのです。

現に今、この記事を書くにも「名利に気を付けなさい」というたった数文字の言葉に、私がどれほどの言葉を費やしているか……。どれほどの記憶を呼び起こしているか……。

言葉にするのは簡単ではありません。言葉にできない事の方がむしろ多いと感じます。

経典や仏教の言葉にも、それだけの背景があるのだと私は考えています。

じゃぁどうするか。どうしたらいいのか。どう行動したらいいのか。答えは、言葉の中にはありません。

言葉にはないのですが、たった一つの言葉から、様々なことが脳裏の浮かびます。この浮かび上がってくるものが、仏教の理解を助けてくれます。もっといえば、その時その時の答えを導き出すヒントになってくれてます。

辛く苦しかった出来事が、今の自分を支えてくれるヒントになってくれている。その実感が、無かったことにしたいはずの過去を、それでも欠かす事のできない過去だと思える気持ちにもしてくれます。

「ゲーム自体から仏教に関して何か学んだことはある?」

強いていうなら、これが質問への答えなのですが……。これが答えになっているでしょうか……。

だから最後に私はその人に言いました。

「辛い過去は確かに辛い過去、嫌な出来事だったんです。それが代わることなんてありえない。だけど、いい方は変になるかもしれませんが、その過去があってよかった、ありがとうとも私は思っているんですよ」と……。

代わることのない事実も、そんなふうになら、変わっています。

最後までお読み頂きありがとうございました。
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