作法について/やり方ではなく、あり方を考える

作法、マナー、ルール、条例、法律などなど。

そうやって人間によって考えられた決め事は「規則」と言い換えることができます。

その規則は一見、堅苦しい、鬱陶しいと感じることがあるでしょう。

こうしてください。ああしてください。守ってください。これはしないでください。

これはこうしたほうがいいのかな。あれはああしなきゃいけないのかな。

色々どうすればいいかわからない。正直、鬱陶しい。めんどくさい。

私もそんな気持ちが無いと言えば嘘になります。

例えば、交通ルールという規則に対して、急いでいる時、赤信号や踏切に引っかかると、そんな気持ちが湧くことがあります。

ただ、それと同時に、エジプトでの体験も思い浮かんできます。

そして目を向け直すと、今まで鬱陶しいとこわばっていた力が、自然と抜けるのを感じます。

規則という手綱

規則というのは、手綱と同じ。自分自身を調整する、あやつる手綱です。

手綱がなければ、やりたい放題、好き放題。何処へ行くかもわかりません。

また勝手気ままに皆が動けば、交通渋滞のように、全体としては、自由に動けなくなってしまいます。カオス状態になってしまいます。

私達は一人で生きているわけではなく、さまざまな「つながり」があってはじめて自分がいます。つながりを見失えば、全体として自由に動けなくなってしまいます。

だから手綱は自分を縛っているように感じますが、本来は自由に動くために欠かせないものです。

ただその手綱も万能ではありません。

締めすぎてしまうと、今度は自分自身が縛られてしまいます。縛られれば縛られるほど、身動きがとれなくなります。縛られる人が増えれば増えるほど、皆が動けなくなってしまいます。

規則にあまりに囚われすぎると、自分がその手綱に囚われる、捕縛されてしまいます。そうして自分を見失っても、自由に動けなくなってしまいます。

だから妄信的に規則に随う、もしくは規則に随っていれさえすれば他は何してもいいというわけでもありません。

手綱を締めることも大事、手綱を緩めることも大事。

その両方ができてこそ、初めて規則という手綱は上手く機能するのではないでしょうか。

やり方を考えるのではなく、あり方を考える

私達は作法やルールなど、規則というと、そのやり方ばかり、気にしてしまいがちです。

「どうやったらいいのか」「どうしなきゃいけないのか」「これは守らなきゃいけない」「これはやってはいけない」

やり方だけに目を奪われると、守らなきゃいけないという義務感、やらされているという強制感などで、余計な力が入ってしまうのかもしれません。

余計な力が入れば入る程、手綱の調整は難しくなってしまいます。

では力を抜くためにはどうするか。それは身体を動かすのとよく似ているのかもしれません。

例えばボールを投げるという事に関しても、まずはボールの投げ方、やり方を理解しただけでは、ボールは上手く投げる事はできません。

やり方を学ぶにしろ、むしろ、身体が動き、手の動き、指の動き、ボールの動き、投げた時のあり方をよくよく感じないことには上手く投げられません。

私は規則という手綱を掴むにも、やり方だけを考えるのではく、そういうあり方を感じることが大事だと思うのです。

本来、規則・手綱は、お互いが自由に、気持ちよく過ごせるように、或いは自分が自由に動けるように、或いは滞りなく動けるように、考え、決められた工夫です。

私はそれが、規則が生まれた背景、あり方だと思うのです。

坐禅の作法も紐解けば、理に適った動き、あるいはその気遣いの多さに驚かされることがあります。

交通ルールも紐解けば、お互いがスムーズに動けるように、凄く考えられたシステムだと感心することがあります。

紐解くというのは「どうしてその作法があるのか」そのあり方を考えるということです。

そのあり方に目を向け「どうしてそんな規則ができたのか」の理由に気づくと、納得します。そして、自然と力が抜けていきます。

そして、力が抜ければ、力まずに手綱を持つことができます。そして更には、手綱自体に囚われることなく、手綱を変化させることも自由になります。

「どうすればいいのか」ではなく、「どうしてあるのか」という視点で思い巡らす。形だけではなく、そこから深く中身まで思いめぐらす。

それが作法やマナールールを本当の意味で理解する、大事な視点なのかもしれません。

コメント

  1. 智彰さま、いつもお世話になっております。
    此の所、予定が重なり写経会、坐禅会とも参加出来ずにおりますが・・・

    ひとつお教え頂ければ幸いです。

    私、いつかお話しさせて頂いたかと思いますが、私の仏教との出逢いは、京都の妙心寺(臨済宗)でして、今は、荒村寺様にも通うようになり、坐禅や写経に勤しんでいる訳ですが、臨済にも曹洞にも『参禅』という言葉がありますが、臨済のそれは所謂、与えられた公案の見解を述べるために師僧のもとに参ずる『入室参禅』を意味しますが、曹洞ではどの様な意味合いになりますか。また、『老師』というのはどのような立場の方をいうのでしょうか?

    かなり昔に、一週間ほど永平寺で体験修行した経験もあり、粥座での作法・・・匙と箸、典座の胡麻塩など、宗派が異なれば色々あるな、とふと思いました。

    しかし、所謂『禅宗』ということで、臨済も曹洞も黄檗もほとんどシームレスに坐禅などに興じられることは、自身、大変有意義なことと理解しております。

    ご多忙の折、よろしければご教授くださいませ。

    • ちしょう より:

      コメントありがとうございます。

      『参禅』という言葉には、様々な意味があります。というよりは、言葉自体が生き物みたいなもので、時代や場所によっても変化するものです。

      知識を蓄えることは悪い事ではありませんが、場合によっては振り回される、縛られることもあるのが知識です。

      知識も今回の記事の「やり方」に他なりません。質問の内容から察するに、幸元さんの手綱を持つ手に力が入っているような気がしてなりません。

      上記の事は直接お会いした際にでも、またご質問ください。

      さてそれを踏まえた上で、参禅の言葉を解説すると、①師を尋ね道を問う、②禅の修行すること、③坐禅のこと、➃公案工夫することなど、割と大きな範囲で使える言葉です。

      私自身は割と広い範囲で使っています。曹洞宗や臨在宗でどうやって使っているというよりは、その人がどういう想いで使っているか、そこが大事なのではないでしょうか。

      『老師』という言葉も敬称の一つです。師家(経験豊かで修行僧の指導役にあたるいわば先生)のみに使う場合もあれば、広く先輩、老宿(年配僧侶)の型に使うこともあります。

      私は、先生、老宿、いろんな場面で老師と呼ばせて頂くことが多いですかね。