4月25日、可愛がっていたももちゃんが永眠致しました。

ヒナから育てた鶏。名前はももちゃん。

にわとり

2017年4月25日に5歳で永眠しました。どのようにご報告していいかわからず、遅くなりました。この場をお借りしてご報告させていただきます。

ももちゃんの死

砂浴びが大好きだったももちゃん。本当にいろんな思い出をくれました。

にわとり砂浴び

実は去年の夏あたりに体調が悪化。一時は危ない所までいったのですが、奇跡的に回復しました。その代り、足が悪くなってしまって、寝たきりに。そこから家の中での介護生活が始まりました。

今改めて見ると顔色が違いますね……

家の中の慣れない生活でしたが、約半年間、本当に頑張ってくれました。不思議なもので、亡くなる時も、家族が集まる時まで待っていてくれました。一緒に大きくなってきた子供も共に見守ってくれました。

亡くなった時は悲しくて、大人は皆、目には涙。私もいろんな想いが湧き上がってきました。そんな中、子供にも「ももちゃん、死んじゃったんだ」ということを伝えました。

子供の言葉を聞いて

でも子供はこう言います。「眠ってるだけだよ」「大人になったんだよ」と。

「ああ、そうか。死も一つの成長(変化)か」

と思い、私はその言葉に少し慰めらた気がしました。

そうかと思うと、5分経ったぐらいでしょうか。子供は急に「ねぇねぇ、もうテレビ見ようよ!」と言ってきます。この言葉も私には衝撃的でした。

でもこの時私はふと思い出しました。

「そうか、人って最初っから『死』ってことを理解しているわけではなかったんだな」

生死(しょうじ)

仏教、特に禅では、必ず「生死」と言います。一生と、「生」だけでは言いません。「生」と「死」は切っても切り離せない。仏教では「死」というものを考えることは避けて通れません。

私達は「生」まれたからには、また「生」きているからには、必ず「死」にます。そして「死」ぬという事実は、必ず「生」きている事実があるから起ります。「生」きるってことを考える時、かならず「死」も考えます。「生死」は切っても切り離せない、必ず共にあるものです。

片方だけに囚われるのは、表裏の片面だけに囚われるようなもの。生きているのが当たり前と思って、死を忘れてしまうと、生きている有難味(ありがたみ)を忘れてしまいます。

逆に死に囚われて、今、生きているというこの事実を忘れてしまうと、死の恐怖に囚われたり、もしくは死そのものに逃げ込んだりしてしまうこともあるかもしれません。

生と死、これはきっても切り離せない。「生」を考える上で、「死」は絶対に避けては通れない。だから仏教では「生死」というのでしょう。

こうやって死を考えるってことが当然のように思っていた私。でも忘れていました。でも子供の言葉で思い出しました。最初から人は死を認識していないってことを。

思えば自分自身も……。

本当に「死」ってあるんだと心の底から思ったのは、高校生の時。祖母の死がきっかけでした。親しい人が亡くなってはじめて、本当に「死」があると実感しました。この身に降りかかってくるものなのだと実感しました。

「死」っていうものが何か?

それは実際、体験してないからわかりません。それを体験する時は、実際にはもうそれを認識できない時。だから直接的に学べ、自ら近づいて学べということではありません。

そうではなくて、人はいろんな経験を経て、その「死」を少しずつ認識していきます。少しずつ少しずつ、他者から教わっていきます。そして、自分にも死が訪れるということを、いつしか本気で理解します。そうして死について考えはじめると同時に、その人は生き方についても見直しはじめていく。

「死」を知ることは、同時に「生」を知る事。

「生」を学ぶことは、同時に「死」を学ぶこと。

互いに学ぶからこそ、互いの理解が深く、そして分厚くなっていく。 だから人生を濃密にしていくには、やはり死の理解も不可欠だと思うのです。しかし、逆に死に方だけ考えすぎても、生き方を見失ってしまいます。片方だけでは表面的で、なんだか薄っぺらいものになってしまうような気がします。

「生死」

これは当たり前のことですが、とても難しいことです。

人は「生」まれ、「生」きています。当たり前のことです。でも「生」って本当に難しい問題です。だからこそ「死」も学ぶことも大事だと思うのです。でも、人は最初から「死」を知っているわけではありません。

人は「死」ぬ。これも当たり前の事です。でも「死」って本当に難しい問題です。 だからこそ 「生」も学ぶことも大事だと思うのです。しかし、よく考えると「生」って何か、私達は本当に知っているわけではありません。

しかし、恐らく子供にも「死」とか「生」とか言葉にしなくても、今回のももちゃんの死から、何かしら感じる所はあったことでしょう。いや、一緒に生きてきたその時間からも私達はたくさんの事をももちゃんから感じさせてもらいました。

そうやって言外に、私にも子供にも家族にも「生死」を教えてくれたももちゃん。出会ってから過ごしてきた日々、そして別れたその瞬間も、私達にとってかけがえのない時間をいただきました。

ありがとう


以下二つのエピソードにも関連しています。

仏教エピソード第33話「四の馬」

仏教エピソード第34話「子供を亡くした母親キサーゴータミー」

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