瓦を磨いて鏡と作る

禅や仏教を学べる場を作りたいということで、伊丹禅教室を起ち上げ、約七年が経ちました。

学べる場というのは、一方的に教える場でもなければ、一方的に教わる場でもありません。

私としては、坐禅指導したり、法話をしたり、教えるという立場も頂いていますが、私自身も学ぶ一員です。

一般的には、教える方が川の上流、教わる方は川の下流といいましょうか。教える方→教わる方へと一方的なものだと考える人も多いでしょう。学ぶ側は教えられる側だと。

しかし、教えるという事は、別に一方的なことではなくて、それ自体が学び(教わっている)です。

教えていると同時に、教わっている。もちろん、教わっている方も同時に教えているのです。

それが学び。それが私のスタイルですし、それもまた仏教から教えられたことでもあります。

仏教は広大です。なにしろ、歴史だけでも約2500年ありますからね。一人では絶対に知り得ない所はどうしたってあります。

しかし、私は欲張りですから、知らない所も触れてみたい、分からない所も触れてみたいと思うわけです。

まだ見ぬ世界を観てみたい、旅と一緒ですね。

参禅者の皆さんの見解や質問は、私にとって、まさに知らない所を触れさせてくれる、その教えでもあります。

そんな旅路を楽しませてくれる皆さんには、心から感謝しています。一緒に学んで参りましょう。

ということで、今回の本題の「南獄磨甎なんがくません」の話へ移ります。

旅は目的につくことだけが旅ではありません。どうか結論だけ求めずに、その過程も楽しんでください。

南獄磨甎

南獄磨甎」とは、師である南獄懐譲さんと弟子の馬祖道一さんの師弟間の問答です。

南獄懐譲さん、馬祖道一さん共に、禅宗史において有名な人です。

この「南獄磨甎」の問答には、師匠が瓦を手に取り磨くシーンがあります。

そして弟子は師に「何をしているんですか」と尋ねます。

そこで師は答えます。「瓦を磨いて鏡にしようとしている」と。

と、知ったような口をきいてますが……、参禅者の方に質問されるまで、実は私この話の事を知りませんでした。きれいさっぱり忘れていました……。

質問をきっかけに調べる中で、過去の資料の中に、この話がありまして……。過去の自分にとってこの話は、あまり心に響かなかったのでしょう。

頭だけの理解では限界があることを改めて思い知りました。

しかし、昔に何も思わなかったことも、いざ改めて出会うと、全く違った印象を受けることはよくある事です。

それが仏教のおもしろさでもありますし、だからこそ、たとえ頭だけの理解だとしても無駄なことはないと思うのです。

おかげさまで、今回は身を入れて学ぶことができました。ありがとうございます。

さて、ここからは私と参禅者の方との問答です。

参禅者との問答

「読んでいた本にこういうことが書かれていて、それについてお聞きしたいのですが……」

その方が読んだ本の中では「南獄磨甎」の話に触れており、「瓦を磨いて鏡にする」という点について疑問が湧いたようでした。

その方は本を読んで、このような印象を受けたそうです。

「いくら瓦を磨いても鏡にはならない。瓦は瓦なんだ。だからどうしようもない」

しかし、その方はまた、他の本を読んだ時は、また違った印象を持っていたそうです。

「瓦は瓦。だからありのままでいいんだよ」

同じ内容について述べているのに、異なった印象をうけて、戸惑ったのかもしれません。

ということで、私に見解を求めてこられたというわけです。

同じ内容、違う印象。

「おそらく、何かの禅問答なのだろうなぁ」と察することはできた私ですが、知らないものは知りません。

ただ、参禅者の方の話を聞いた限りで私が感じた事は「どちらもあながち間違いではないよなぁ」ということでした。

どちらもというのは、この二つの印象です。

「いくら瓦を磨いても鏡にはならない。瓦は瓦なんだ。だからどうしようもない」

「瓦は瓦。だからありのままでいいんだよ」

世の中には仏教や禅について書かれた本がたくさんあります。

おもしろいことに、同じ内容について言及しているのに、受ける印象がまるで違うということは多々あります。

本に書かれていることは全て、著者の見解であり、著者が辿り着いた答えです。

著者自身の考えや著者自身がその原本から受けた印象によって、書かれた文章は異なるでしょう。(お経という書物にも当てはまると個人的には考えています)

それは例えるなら読書感想文と同じ。同じ本について述べれらた感想文あっても、皆それぞれ違う感想文を書くわけです。

人間が抱く感想や意見は、パソコン上にように、コピー&ペーストはできません。

では、どちらの感想が正解なのでしょうか?

いいや。どちらも間違ってはいないのです。どんなものであれ、間違ってはいません。

違うという時は、自分の意見と違うというだけであって、否定ではないのです。

間違いというのであれば、そもそも、私に言わせれば、その質問自体が間違いです。

そのどれもがその人なりの答えです。しかし、それは唯一絶対の正解でもありません。そして間違いでもありません。

少なくとも、それは書いた人の答えであって、自分の答えには決してならないとは言えるでしょう。

それでは、自分の答えにならないから、正解にならないからといって、その見解を切り捨ててしまっていいのでしょうか?

そんなことしたら、元も子もありません。

だから、私は決して切り捨てずに、自分なりの解を見出すヒントとして受け止めるように心掛けています。

簡潔に言えば、答えにはならないが、参考やヒントにして考えましょうということですね。

答えを探すのではなく、まず問いを深める

私達は答えを知りません。そこにあるのは問題です。問いです。

だから、今ここにない答えを見つけようとするのではなく、まずは問いに向き合うことからはじめるべき。問いを深めていけば、自ずと答えざるを得ません。

おそらく、私への質問に対する答え方は、基本的にこういうことなんでしょうね。

問うて答えるを繰り返すうちに、気づくものがある。

ということで、まず「瓦を磨いて鏡にする」という問いに向き合うというのが、参禅者の方の問いに対する私の答えでした。

瓦を磨いて鏡にする

「いくら瓦を磨いても鏡にはならない。瓦は瓦なんだ。だからどうしようもない」

「瓦は瓦。だからありのままでいいんだよ」

受け取り方、つまり答えは人それぞれなんですよね……。

だから、いくら答えを探し廻っても、人の数だけその応えはあります。つまり答えは無限にあるのです。

だったら、他人の答えを探し回る前に、まず実際に自分で瓦を磨いてみましょう。

瓦を磨くとわかること。

瓦を磨いたら鏡になりますか?

鏡にはなれません。瓦を磨いたところで、瓦は瓦です。瓦は他のものにはなれません。

それはどうしようもありません。瓦は瓦のまま、ありのままです。

では瓦は瓦なんだから、ずっとそのままでいいのでしょうか?

瓦だって、いつか朽ち果てます。瓦のままにしようにも、何事も変化はするものです。

放置しておけば痛んでしまいますし、磨けば綺麗になります。

瓦は瓦で確かにありのままですが、磨いた瓦と放置された瓦だったら、そりゃあ、磨いた瓦の方がいいに決まっています。

瓦を大切に、大事に磨けば、痛みにくいし、綺麗だし、重宝され、瓦自身もハッピーです。

でも、ちょっと待ってください。

瓦を磨いて鏡にしたかったんですよね。でも瓦はいくら磨いても、鏡にならないのですよね?

瓦が鏡にならないのであれば、瓦を磨いたことは無駄なのでしょうか?

一生懸命に瓦を磨いてきたことは、意味のない事なのでしょうか?

そりゃ無駄で、意味なく、価値ないでしょう。鏡にするとしか考えてなければ……。鏡にしなければと、先に自分で結論こたえを決めつけていては……。

焦らなくとも、自分で実際に磨いてみれば、いろんな答えが返ってきます。

瓦は他のものにはなれないという答えも。

瓦をほったらかしにすると、汚れることも、痛むことも、朽ちていくこという答えも。

瓦を磨けば、綺麗になるこという答えも。

ひょっとしたら、磨きに磨けば、鏡にはならないまでも、瓦は瓦のままで鏡のように反射するかもしれません。

ただし、瓦を磨き過ぎれば、もろくなる。壊れやすくなってしまうという答えもあります。

磨いた瓦、放置しておいた瓦、磨き過ぎた瓦。いろんな瓦を見て、どれがどのように壊れやすいか、どれが人から喜ばれるか、瓦自身にとって何がいいことなのか。いろんな答えが出てきます。

そうやっていろんな答えに出会えるのだから、磨いたことは決して無駄ではありません。意味が無いなんて、価値が無いなんて、そんなことはありえません。

例え自分の思い通りの答えでなくとも、答えはちゃんとそこにあるのです。


さて、瓦だとあまり想像しにくいかもしれません。例えば、こう考えてみてはどうでしょう?

瓦を現実の自分。そして鏡は理想の自分です。

ああなりたい。こうなりたい。自分を磨いて、必死に磨いて、自分の理想を追い求める。しかし現実にぶち当たり、気づくわけです。現実は理想おもい通りにはいきません。

現実の自分を磨いて理想通りの自分にする

「いくら現実の自分を磨いたって、理想の○○にはならない。自分はどこまでいっても自分なんだ。だからどうしようもない」

「自分は自分。だからありのままでいいんだよ」

受け取り方、つまり答えは人それぞれなんですよね……。

だから、いくら答えを探し廻っても、人の数だけその応えはあります。つまり答えは無限にあるのです。

だったら、他人の答えを探し回る前に、まず実際に自分で自分を磨いてみましょう。

自分を磨くとわかること。

自分を磨いたら理想通りになりますか?

理想の○○にはなれません。自分を磨いたところで、自分は自分です。自分は他の者にはなれません。

それはどうしようもありません。自分は自分のまま、ありのままです。

では自分は自分なんだから、ずっとそのままでいいのでしょうか?

自分だって、いつか朽ち果てます。自分のままにしようにも、何事も変化はするものです。

放置しておけば痛んでしまいますし、磨けば綺麗になります。

自分は自分で確かにありのままですが、磨いた自分と放置された自分だったら、そりゃあ、磨いた自分の方がいいに決まっています。

自分を大切に、大事に磨けば、痛みにくいし、綺麗だし、重宝され、自分自身もハッピーです。

でも、ちょっと待ってください。

自分を磨いて理想通りにしたかったんですよね。でも自分はいくら磨いても、理想通りにならないのですよね?

自分が理想通りにならないのであれば、自分を磨いたことは無駄なのでしょうか?

一生懸命に自分を磨いてきたことは、意味のない事なのでしょうか?

そりゃ無駄で、意味なく、価値ないでしょう。理想通りにするとしか考えてなければ……。理想通りにしなければと、先に自分で結論こたえを決めつけていては……。

焦らなくとも、自分で実際に磨いてみれば、いろんな答えが返ってきます。

自分は他の者にはなれないという答えも。

自分をほったらかしにすると、汚れることも、痛むことも、朽ちていくこという答えも。

自分を磨けば、綺麗になるこという答えも。ひょっとしたら、磨きに磨けば、理想通りにはならないまでも、自分は自分のままで、理想あこがれの○○ように輝くかもしれません。

ただし、自分を磨き過ぎれば、もろくなる。壊れやすくなってしまうという答えもあります。

磨いた自分、放置しておいた自分、磨き過ぎた自分。いろんな自分を見て、どれがどのように壊れやすいか、どれが人から喜ばれるか、自分自身にとっていいことなのか。いろんな答えが出てきます。

そうやっていろんな答えに出会えるのだから、磨いたことは決して無駄ではありません。意味が無いなんて、価値が無いなんて、そんなことはありえません。

例え自分の思い通りの答えでなくとも、答えはちゃんとそこにあるのです。


もし、仏道修行を歩む者であれば、瓦は自分で、鏡は悟り、あるいは仏でもいいですね。そのように置き換えることもできます。

自分の思い通り(理想)の答えでなくとも、自分を磨いているうちに、気づく事、悟る事はたくさんあります。

だから私は、先に結論という答えを、理想の答えを探しまわるのではないと思うのです。

磨くことによって、いろんな答えに気づかされるのですから。悟らされるのですから。

だから私はこの瓦の話は、「磨く」という所が非常に大事なんじゃないかと感じたわけです。

なんというか、自分で磨いてみないことにはわからないのですよね。

そうして自分で磨いてみることによって、現実にぶち当たってみて、はじめて気づかされる事があるのです。

気づきさえすれば、案外、間違いを正す、正することは難しくないのかもしれません。

例えば「瓦を磨いて鏡にしよう」と見当違いの理想を抱いている自分気づけば、気づきさえすれば、そこからどうすればいいか、自ずと道は見えてきます。

ならば答えは最初から、問いの中にあるわけです。

鏡にしようとか、理想の○○にしようとか、どれが理想の答えだとか、答え探しをするのではありません。

問いを深める。磨いてみる。そうすると自ずと答えは返ってきます。様々な答えに出会うことができます。

そうしないことには、自らの答えはわからないのではないでしょうか。

瓦を磨くと、様々なことが映し出されている。それこそ鏡のように。
何の為に坐禅するのですか? 正直わからない、というか、答えようがない。それは旅と同じ。「瓦を磨いて鏡と作す」有名な禅問答から。

最後までお読み頂きありがとうございました。
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