坐禅会を終えて|2018年9月1日

本日は坐禅会でした。

8月は伊丹禅教室はお休みの為、なんだか久しぶりに感じる坐禅会でした。

1ヶ月も立つと、以前の茶話会などで何を語っていたか、もう覚えていません。

だからまた、新たな気持ちになる9月でもあります。

とはいっても、坐禅会は以前と変わらず、皆さんと共に坐る、その時間です。

「覚えていなくていいのか?」と思う方がいるかもしれませんが、知るということは、忘れるということでもあると私は思います。

「知ることは、ただ知ることではなく、行ずること、証すること、説くこと、忘れることともいう」

お経の中の言葉です。もちろん、私の受け取り方ですが。

そしてここには、勘違いすることも、間違うことも、全部全部含めて、知ることと繋がっていると思っています。

「坐禅中に頭の中で妙に納得がいったことが、話す時にはもう忘れている。」

本日の茶話会でもそういった話に共感したのは、私の中にそんな想いもあったからかもしれません。

茶話会でも「坐禅は無色透明ですよ」と言いました。(記事にもしているので、ご参照ください「坐禅は無色透明」)

だから、最初から色を決めつけて坐らなくていいんですよ、と言いました。

無だとか、厳しいとか、あるいは、気になるとか、良いだとか、それだけの色で坐禅を決めつけなくていいですよと。

ただ、話すには、色を付けなくては話せません。形にするには、色を付けなくては見えません。

坐禅をする前から、色を決めつけて坐ってほしくない。でもそのことを説明するには、本当に何かしらの色にして、色々話さなければならない。

これは坐禅だけの話ではなく、知るという時間、忘れるという時間、行ずるという時間などなど、知るや忘れるにも通じる話かもしれません。

知るという色にも、忘れるという、あるいは行ずる、説くなどなどの色々な色あって、知っているだけでは、知るということにはなりません。

今日、感じた、今日、知った、というだけでは、坐禅を知ったということにはならない。

話が色んな方向に行ってしまいましたが、要するに、「今日感じた今日知った色だけではくて、他の色もまた坐禅に来て感じに来て頂きたい」ということです。

是非また、お越しください。

よろしくお願いします。

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