歴史

更新日 2017-08-09

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荒村寺の歴史

行者堂(戦国時代)

荒村寺 023_R.jpg荒村寺 023_R.jpg行者堂に安置されている行者像古文書(荒村寺由緒に記されているだけでも、荒村寺の歴史は、有岡城が落城した1578年、戦国時代まで遡ります。

当時から既に行者堂が建っていたそうですが、いつからあったのかはよくわかっていません。

行者とは、山の中をひたすら歩き修行する修験道の実践者のこと言います。
修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)の行者像が、その弟子の義角によって作られた古文書には書かれています。

現在でも荒村寺の行者堂には、この役行者像(えんのぎょうじゃぞう)が祀られています。

城山庵(江戸時代)

荒村寺 009_R.jpg荒村寺 009_R.jpg荒村寺の歴史が書かれた古文書「荒村庵由緒」その後、江戸時代の寛政年間(1789~1800年)に、和尚さんが一時的に滞在するための庵室が、酒屋であった木綿屋徳三郎という人物によって建造されました。

当時、伊丹は酒造りの町で、1800年頃がその最盛期でした。
木綿屋の酒は江戸積銘酒番付(江戸時代のお酒の順位付け)に前頭筆頭として載っているほどだと言われています。

その伊丹郷町の木綿屋徳三郎は深く禅宗に帰依し、郷町の堺町にあった閑室に嘯山虎渓和尚を招いて参禅していました。
それが縁となって彼は庵室を造り、その時に、現在の荒村寺の本尊様である十一面観音菩薩が安置されたと古文書にはあります。

また当時、庵室付近の地は伊丹字古城と呼ばれ、有岡城跡の一部でした。
そのためか、人々から城山庵と呼ばれていました。

荒村庵(江戸時代)

WEB 素材 012_R_R.jpg織田信長によって滅ぼされた有岡城跡 城山庵は、越後国(現在の新潟)の一妙法國尼を招き、その尼僧さんによって守られていました。
後に伊丹の有岡城跡に移されました。

有岡城は戦国武将であった荒木村重を城主としていましたが、戦国時代(1578年)に織田信長に謀反の疑いをかけられ滅ぼされました。

WEB 材料 1094_R.jpgWEB 材料 1094_R.jpg庵室は有岡城跡に場所を移したのを機に、この荒木村重の古城跡の由緒により、城山庵から荒村庵と改められました。
これが現在の寺号、荒村寺の元となりました。

また荒村庵と名を改めたのは、荒木村重の菩提を弔うためとも言われています。
荒村寺には荒木村重の位牌が、現在祀られています。

古城山 荒村寺(近代)

WEB 素材 002_R_R.jpg移転前の荒村寺 右手には伊丹駅が見えます。戦国時代に信長によって有岡城が廃城となってからも、城下町の一部はそのまま残り、江戸時代には酒造りの町として栄えました。

その町の人々は、その昔本城があった場所を古城山と呼んでいたそうです。

そして明治26年(1893年)、鉄道(現在のJR宝塚線)が開通されたことにより、城跡の東側が削り取られました。

WEB 素材 024_R_R.jpg以前荒村寺のあった場所 現在の写真昭和25年(1950年)、法地開山(独立したお寺としての資格を持つこと)を機に荒村庵は、山号を古城山とし、寺院名を荒村寺としました。

その後、昭和50年(1976年)の伊丹市の都市計画により、有岡城跡(現在フランドルの鐘が建っている場所)から50メートルほど離れた現在の場所に移転しました。

仏教の話の中に山号の古城にまつわるこんなエピソードがあります
仏教エピソード 第10話「古城に至る道」

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