荒村寺で行っている写経会。最近また少しずつ、写せるお経を増やしています。
いま増やしているのは、ホームページでご紹介している仏教エピソードの原文になります。
また仏教エピソードにはない原文もいくつか写経するようになりました。
その中には、少し気になった内容のものもあり、せっかくなので、今回、翻訳してご紹介いたします。
雑阿含経巻第10-260(仏教エピソード第40話)
ある時、祇園精舎にて。お釈迦さんの弟子であるサーリプッタさんが同じく弟子のアナンダさんの所を尋ねました。
互いに挨拶を交わし、座に就いたところで、サーリプッタさんは、アナンダさんに言いました。
「尋ねたいことがあるのですが、少し時間を頂いても構いませんか?」
「構いませんよ。知っていることであれば答えましょう」
「ではアーナンダ。いわゆる『滅』とはどういうことでしょう」
「サーリプッタ。全ては是、ありのままの所、そのまんま。そしてこれは無常。つまり、いつまでも変らずにあるものなんてない。常にずっとあるものはない。あらゆるものは変化する。こうして滅するということが現れてくる。様々な事がそのようなことを教えてくれる。
あらゆるものはそうして滅するということを現しているが故に、これを名付けて、『滅』というのではないでしょうか」
「その通り。その通り。アーナンダ。あなたが説いた通りです。全てが、もし、ありのままの所、そのまんまでないのであれば、どうして滅するといえるのでしょうか。言えるはずありません。
アーナンダ。全ては是、ありのままの所、そのまんま。そしてこれは無常。あらゆるものは変化する。こうして滅するを様々な事が教えてくれている。あらゆるものはそうして滅するということを現しているが故に、これを名付けて、『滅』というのです」
と、二人は法の話に花を咲かせたのでした。
メッセージ
仏教を学んでいると、「滅」という言葉を見る機会は、意外と多いです。
単純に考えると『滅』というのは、消え失せるという意味に捉えてしまいがちです。
しかし、この「滅」という言葉は、非常に難しく、語源を調べると、実に様々な意味が込められています。
その一つとして、このお経も、「滅」ということを考える一つのヒントになるかと思います。
ここでは、完全に消え失せて、きれいさっぱり跡形もないという意味ではなく、滅は変化の過程のような意味合いとして捉えることができるのではないでしょうか。
少なくとも私は、このお経を読んだ時、とある光景が脳裏によぎりました。
それは子供の言葉です。大切に一緒に育ってきたにわとりが亡くなり、その死を伝えた時に、言われた言葉。その時、私は「なるほど、死も一つの変化かと」と思い、すこし慰められた気がしました。
その時感じたことと、今回ご紹介したお話の内容。何か通じる所があるようにも感じるのです。