手綱とするか、縛りとするか。どちらも同じ縄といえど。

ルール(規則)、約束事、法律など、世の中には、さまざまな決まりがある。

それにより行動を制限され、またそれを束縛だと感じることもあるだろう。

そして、自らが縛られるということは、何とも苦しいことだ。

自らを縛るもの、その束縛から解き放たれたい。そう思うこともあるだろう。

しかし、それでは、自由にはなれない。やりたい放題、好き放題。何処へ行くかもわからない。

それではまた、苦しみに迷うことになってしまう。

仮に、何も制限がなかったとしても、私達は人間だ。そこにはやはり、身体的にも、人としての限界という制限がある。

ルール(規則)、約束事、法律など、世の中には、さまざまな決まりがある。

それは、縄である。

制限だと感じて、縛るものにするのか。

それとも、遊行自由にめぐり歩くための手綱とするのか。

全ては自分次第である。


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自由に囚われると自由が自由でなくなってしまいます。
できないと「あきらめる」ことは、できる可能性を「あきらめる」事に繋がるわけです。
「どうすればいいのか」ではなく、「どうしてあるのか」という視点で思い巡らす。形だけではなく、そこから深く中身まで思いめぐらす。

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