荒木村重

更新日 2017-08-09

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荒木村重

荒村寺の名前の由来であり、
織田信長に仕え摂津国を治めた戦国武将、
また千利休の弟子「利休七哲」でもある荒木村重
ここではいくつかの説を基に簡単にその生涯を紹介します。

池田二十一人衆、そして信長の家臣に

船底 001 (2)4のコピー_R.jpg船底 001 (2)4のコピー_R.jpg荒木村重が幼少期遊んだ云われる船の船底荒木村重は天文4年(1535年)に生まれ、初めは現在の大阪池田市にあった池田城の城主、池田勝正の家臣として仕えていました。池田氏の娘を娶り一族衆となった村重は、池田二十一人衆として頭角を現します。

元亀元年(1570年)、池田氏の内紛に乗じて村重は、自分の主人である勝正を追放します。
そして翌年(1571年)の白井河原の合戦において、摂津三守護であった和田氏の軍を破り、続いて茨城城、高槻城を攻め落としました。

室町幕府が滅ぶことになる年元亀4年(1573年)、足利義昭が織田信長に対して挙兵したため、信長は京都に向かって進軍しました。
その時幕臣であった村重は信長が京都に着陣すると、義昭を見限り信長側につきました。

天正2年(1574年)には、伊丹氏に代わって伊丹城に入城。
城を大改修し、名前を有岡城と変えて、摂津国の支配を任されました。
その後も信長に従い、武功を挙げました。

信長に対する反逆

WEB 素材 012_R_R.jpgしかし天正6年(1578年)、摂津のあたりに噂が広がります。
それは有岡城主である村重が、城に立て籠もり信長に反逆したというものでした。

これを聞いた信長は、村重の意志を確認するため三人の使者を送り、村重の出頭を求めます。
これに対して村重も信長のもとへ出向くと応じました。

村重は信長のいる安土へ向かいますが、その途中家臣から諫められ、止むを得ず伊丹に戻りました。
その後も黒田孝高が村重の翻意を求め、有岡城に来ましたが、村重は彼を幽閉しました。

有岡城での籠城戦

WEB 素材 015_R_R.jpg村重は有岡城に籠城。
天正6年(1578年)7月から、翌天正7年(1579年)10月19日にかけて行われた織田軍との籠城戦が始まります。

天正7年の9月、戦況は思わしくなく、村重は単身で毛利軍の援軍を求め、有岡城を脱出し尼崎城に移りました。

その翌月、織田軍は有岡城に総攻撃を開始しました。

「荒木村重が尼崎城と花隈城を明け渡すならば、本丸の家族と家臣一同の命は助ける」
と信長から講和の呼びかけがあり、その時城守をしていた荒木久左衛門は有岡城を開城し、妻子を人質として尼崎に使いとして来ます。
しかし村重はその説得に応じませんでした。

信長は人質の処刑を命じ、荒木一族郎党ら122人が尼崎近くの七松において焼き殺され、村重の妻や親族は引き回しの上、六条河原にて斬首されました。

また信長は高野山金剛峯寺が村重の家臣を匿っていたため、数百人もの高野聖を惨殺しました。

村重本人は花隈城に移り、最後は毛利氏に亡命することになります。

茶人として秀吉に仕える

WEB 材料 1094_R.jpgWEB 材料 1094_R.jpg荒木村重の位牌しかし天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で自害する堺に戻り、後に豊臣秀吉に茶人として仕えました。
この時村重は自らを「道薫」と号していたそうです。
また千利休と親交を持ち、「利休七哲」の一人とも言われています。

また村重は初め、自らを「道薫」ではなく「道」と名乗っていたと古文書には記されています。
一族を皆殺しにされながら、一人生き延びた自分自身のことを考えると、村重の心中はどのようなものだったのでしょうか・・・?
この名は当時の村重の心の内を物語っているように思います。

そして天正14年(1586年)4月の茶会を最後に、5月4日、堺において52歳の生涯を終えました。
現在荒村寺には、荒木村重の位牌が安置されています。

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