荒村寺の名前の由来である荒木村重。織田信長に仕え摂津国を治めた戦国武将であり、また千利休の弟子「利休七哲」のうちの1人にも数えられています。ここではいくつかの説を基に簡単にその生涯を紹介します。
池田二十一人衆、そして信長の家臣に
荒木村重は天文4年(1535年)に生まれました。真偽のほどはわかりませんが、幼少期、荒木村重が遊んだと言われる船底が、荒村寺に伝わっています。
村重は、現在の大阪池田市にあった池田城の城主、池田勝正の家臣として仕えていました。池田氏の娘を娶り、一族衆となった村重。池田二十一人衆として次第に頭角を現しました。
元亀元年(1570年)、池田氏の内紛に乗じて、自分の主人である勝正を追放。そして翌年(1571年)の白井河原の合戦において、摂津三守護であった和田氏の軍を破り、続いて茨城城、高槻城を攻め落としました。
室町幕府が滅ぶことになる元亀4年(1573年)。足利義昭が織田信長に対して挙兵したため、信長は京都に向かって進軍しました。その時幕臣であった村重は、信長が京都に着陣すると義昭を見限り、信長側につきました。
天正2年(1574年)、村重は伊丹氏に代わって伊丹城に入城。城を大改修し、名前を有岡城と変えて、摂津国の支配を任されました。その後も信長に従い、武功を挙げました。
信長に対する反逆
しかし天正6年(1578年)、摂津のあたりに噂が広がります。それは有岡城主である村重が城に立て籠もり、信長に反逆したというものでした。
これを聞いた信長は、村重の意志を確認するため三人の使者を送り、村重の出頭を求めます。これに対して村重も信長のもとへ出向くと応じました。村重は信長のいる安土へ向かいました。
しかし、その途中家臣から諫められ、止むを得ず伊丹に戻りました。その後も黒田孝高(黒田官兵衛)が村重の翻意を求め、有岡城に来ましたが、村重は彼を幽閉しました。
有岡城での籠城戦
村重は有岡城に籠城。天正6年(1578年)7月から翌天正7年(1579年)10月19日にかけて、織田軍との籠城戦が起りました。
天正7年の9月、戦況が思わしくないと判断した村重。単身で毛利軍の援軍を求め、有岡城を脱出し、尼崎城に移りました。その翌月、織田軍は有岡城に総攻撃を開始しました。
「荒木村重が尼崎城と花隈城を明け渡すならば、本丸の家族と家臣一同の命は助ける」と信長から講和の呼びかけがありました。そこで、村重に代わり城守をしていた荒木久左衛門は有岡城を開城。妻子を人質として尼崎に使いとして村重の下にやってきました。しかし、村重はその説得に応じませんでした。
信長は人質の処刑を命じ、荒木一族郎党ら122人が尼崎近くの七松において焼き殺されました。また村重の妻や親族は引き回しの上、六条河原にて斬首されました。信長は高野山金剛峯寺が村重の家臣を匿っていたため、数百人もの高野聖を惨殺しました。
村重本人は花隈城に移り、最後は毛利氏に亡命することになります。
茶人として秀吉に仕える
天正10年(1582年)6月、本能寺の変により信長が自害すると、村重は堺に戻りました。そして、茶人として豊臣秀吉に仕えました。この時、村重は自らを「道薫」と号していたそうです。千利休と親交を持ち、利休七哲の一人とも言われています。
村重は初め、自らを「道薫」ではなく「道糞」と名乗っていたと古文書には記されています。一族を皆殺しにされながら、一人生き延びた自分自身のことを考えると、村重の心中はどのようなものだったのでしょうか……。この名は当時の村重の心の内を物語っているのかもしれません。
天正14年(1586年)4月の茶会を最後に、5月4日、堺において52歳の生涯を終えました。それから時が経つこと200年余り。かつて荒木村重が城主だった有岡城跡に荒村庵が建てられました。荒木村重のお位牌も、その頃に作られたと言われています。