仏教記事トピックス

このページでは、荒村寺公式の仏教記事をまとめています。

過去の仏教エピソードや仏教記事新着情報を順にご覧いただけます。

また、当寺院の僧侶本人が管理するブログサイト『禅僧随想録』では、個人の視点から綴る随想や仏教トークをお楽しみいただけます。

仏教エピソード

仏教エピソード
お経の一節(エピソード)を抜粋し、翻訳しています。そこに自分自身の考えや感想など(メッセージ)を交えています。

ブログサイト

仏教トーク

仏教トーク
古い仏教経典を現代語に意訳し、会話形式で読むシリーズ「仏教トーク」。お釈迦さんと弟子たちのやり取りを通して、読者自身が自分の生き方や日常を問い直すきっかけを届けます。英訳・動画版もあり、様々な角度から仏教に触れられます。

法の種(仏教雑記)

法の種(仏教雑記ブログ)
曹洞宗の禅僧「ちしょう」が日々の生活の中から学ぶ禅や仏教の教えを、言葉にして形に残そうと記すエッセイ・雑記です。

仏教記事新着情報

英語で読む仏教トーク|四諦を「お医者さん」で考えてみる
苦しみがある。感情が湧き上がる。そして道がある。お釈迦さんが弟子たちに語った四諦の教えを、「良医のたとえ」を通して読み解く英語記事を公開しました。対話形式で、一緒に考えながら読める内容です。
愛することと、怒ることは、そんなに違うのだろうか?──仏教トーク動画を公開しました
好きなものを愛し、嫌いなものを怒る——それは当然のことでしょうか。でも愛から怒りが生まれ、怒りから愛も生まれる。愛することと怒ることは、本当にそれほど違うものなのでしょうか。雑阿含経をもとに、お釈迦さんと弟子たちが問いを深めた対話を、動画にしました。
「執着」の原語は、「燃料」という意味だった——upādānaを読む
「執着」という言葉は、仏教由来です。ただ、その原語であるupādānaの字義は、「執着」でも「しがみつく」でもありません。「燃料」「薪」——そう訳される言葉が、なぜ「執着」になったのか。そこに、この言葉の深さが眠っています。
悪魔のささやきは、正しい顔をしていた──仏教トーク52公開
「王様になれば、皆が救われる」——その言葉は、どこまでも正しく聞こえました。お釈迦さんに近づいてきた少年の言葉は、純粋で、筋が通っていて、反論しにくいものでした。なぜお釈迦さんは、その言葉を悪魔のささやきと呼んだのでしょうか。そして、雪山ほどの黄金があっても「足りない」とは、いったいどういうことなのでしょうか。
英語で読む仏教トーク|執着・感謝・そして燃え続ける炎について
私たちは毎日、当たり前のように何かに囲まれています。でも、その「当たり前」はいつまでも続くのでしょうか。仏教では「取(upādāna)」という言葉で、手放せない心のはたらきを説きます。今回は英語記事として、お釈迦さんと弟子たちの対話形式でこのテーマを探っています。
新しい動画を公開しました──「急がないけど、手は止めない」三学(戒・定・慧)と農業のたとえ
学んでいるのに、なかなか身についた気がしない。そんな感覚、覚えがありませんか。お釈迦さんはある日、弟子たちにこんなたとえ話をしました。学びとは、農業に似ている、と。時に随って耕し、種を植え、水をやる。急いで実を成らせようとする農家はいない──。三学(戒・定・慧)をめぐる、静かな対話です。
「鴻鵠」という言葉を、あなたはご存じですか
仏教トークの翻訳作業中、「鴻鵠」という言葉に出会いました。大きな鳥、という意味です。ただ、それだけではありませんでした。この言葉の背後には、中国の故事があり、科挙の歴史があり、経典を漢訳した名もなき知識人の判断がありました。一つの言葉が、どれほど多くの人間と歴史を経て届いているか——。
伝えようとすることが、相手を縛ってしまうとしたら。──仏教トーク51公開
お釈迦さんにも、説法することへの迷いがあったようです。ある村での出来事をきっかけに、心に悪魔が現れたと経典は伝えています。伝えようとすることが、逆に人を縛ってしまうのではないか——そんな問いと向き合った日の話を、対話形式でたどります。
煩悩は雑草のようなもの? 英語で読む仏教トーク、公開しました
煩悩(kleshas)を、植物の成長にたとえて語り合う。釈尊と弟子たちの問答形式で綴られた英語の仏教トークです。「雑草は小さいうちに抜く方がいい」――そこから始まる対話は、やがて予想外の問いへと向かっていきます。英語ですが、ゆっくりと味わうように読んでいただける文体を心がけました。
「正見」には2種類ある?──答えを求めることと、苦に向き合うことの違い【動画公開】
うまくいかないとき、あなたはまず「答え」を探しに行くでしょうか。八正道の「正見(正しく見ること)」には、じつは二種類の意味があるとお釈迦さんは語ります。正しいモデルを目指す見方と、自分の苦しみそのものに向き合う見方。その違いは、思いのほか深いところに関わっています。
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