仏教エピソード

第20話「自他を想う」

どこまで探し求めようと、人は己より愛しきものを見出すことはできない。
そのように他の全ての人々にとっても、自己はこの上なく愛おしい。
それ故に、己の愛しいことを知る者は、他の者を害してはならぬ。
悩む国王と王妃

この経典の言葉を初めて目にした時、私は子供の頃よく言われた言葉を思い出しました。
「自分がされて嫌なことは他の人にもするな!」
私は三兄弟の長男で、三人共年はそんなに離れていません。遊び盛りの男の子三人が集まれば、たとえ何処であろうとも、そこは遊び場になりました。
家族でどこかに行った時は、そこがたとえ公共の場であったとしても、所構わずやんちゃをしたものです。
もちろん、その度に叱られました。何度も何度も叱られました。
「他の人の事も考えなさい!」とよく説教されたものです。
しかしやっぱりそこは子供。「遊びたいのに!」とか、「自分達が思うようにしたい!」とか、ずいぶん自分勝手な事を考えていました。
時には熱中しすぎて聞かない時もあります。
そんな時は首根っこを押さえられ、面と向かってこう言われました。
「他の人の立場に立って考えなさい。もし自分がこんなことされたら嫌ちゃうか?」と。
もし自分が他の誰かだったら……。自分達がしている事を他の人達から見たら……。自分の店先で騒いでいたり、他のお客さんが駆けっこをしたりするのは当然嫌です。
私が渋々「嫌……」と応えると言われました。「自分がされて嫌なことは他の人にもするな」と。
まぁ仮に子供の乏しい想像力で「別に……」なんて言うと、「そんなんもわからんのか!?」と余計に叱られたわけですが……。
ただ幼い頃は素直に受け入れることができたこの言葉も、少しずつ大人になるにつれてだんだんわからなくなってしまいます。
相手の事を考えなさいと大人は子供に言い聞かせますが、私達は知恵がついてくるほど、だんだん自分たちの身勝手さを目の当たりにします。
時には他人から、そして時には自分自身から。
他人の事を考え、自分自身を抑えようとするほど、自己中心的な自分が露わになります。そして自分が気を付けようとすればするほど、他人の自己中心的な行いが目についてきます。
時には「あの人は自己中だ」と思ってしまうことがあります。しかし、そう思う度に当の“あの人”の立場に立って考えていない自分自身がいつもそこにいます。
他人の事を優先して考えるのが善い事。
自分の事を優先して考えるのが悪い事。
道徳的にそう理解しようとしながらも、やはり自分の事は一大事で、他人の事は所詮他人事。
「一万人の死と一人の死、どちらが重いか……?」
この問いに大抵の人は悩みながらも「一万人」と応えるでしょう。
しかし、もしその一人の死が自分自身だとしたら?
それでも他の一万人と応える人がいたとしたら……、私は大分違和感を覚えます。
このように考えると、私はむしろ自分が一番可愛いと思う人の在り方の方が自然に思えてなりません。
現実を見据えると、自分の事を優先して考える人間の本性が見えてくる。それではいけないと、他人の事を優先して考えようと理想を抱く。
真剣に考えるほど、自分が可愛い現実と他人を想う理想は、どこまで言っても平行線のまま。まさに彼方を立てれば此方が立たぬ状態です。
そしてそのような理想は、それとかけ離れた現実の人の姿をより浮き彫りにしていきます。
「何だかんだ言って皆結局の所、自分が一番可愛いんじゃないか……」
結果としてそういう答えに辿り着く人は少なくないのではないでしょうか?
このような思案は決して私だけの話ではなく、経典の中でも見ることができます。コーサラ国の王パセーナディもこのような考えを巡らしていたうちの一人です。
彼の頭の中まではさすがに経典には記されていませんが、彼もどんなに考えても、自分自身よりも愛しいと思える者を見出すことはできませんでした。
どんなに愛しいと思う他者がいたとしても、その愛しいと思える自分自身がいないことには何も始まりません。
彼は最愛の妻であるマリッカーに自らの考えを聞いてみました。「自分自身よりももっと愛しいと思われるものがあるか?」と。
しかし話を進めていくと、結局の所、彼女にも自分より愛しいと思うものは考えられませんでした。
「私達は本当にこんなことでいいんだろうか?」そう思い彼らはお釈迦さんの下を訪ねました。そして自分たちの疑問を投げかけました。
「私も妻も自分自身より更に愛しいものを考えることができませんでした。どんなに思案しても結局、そう答える他ありませんでした。私は、私達はこんなことでいいのでしょうか?」
お釈迦さんはその問いに対して深く頷き、詩を以て説きました。
「どこまでも探し求めても、人は己より愛しきものを見出すことはできない。
そのように他の全ての人々にとっても、自己はこの上なく愛おしい。
それ故に、己の愛しいことを知る者は、他の者を害してはならぬ。」
自分の事が一番可愛いと思うのは、人間の本性、本能とも言っていいかもしれません。私達はそれを何かどす黒いもののように感じてしまいます。
確かに自分の事しか考えず行動する姿は他から見ると醜いものです。だから私達はそれを否定しようとします。
反対に自分を押し殺し、他者を優先することで打ち消そうとします。
でも自分を押し殺すことは、自分にとって苦しいこと。その姿は他から見ると、どこか歪(いびつ)に見えることがあります。
こうやって私達の考え方は自分か他人かのように二者択一になってしまいがちです。そして結局どちらかだけを選ぶと、そのどちらにも違和感を覚えてしまいます。
お釈迦さんは決して私達がどす黒いと思うものを否定しません。
むしろ肯定したままで、「自己はこの上なく愛おしい」と突き詰めていきます。
そうして自分を想う気持ちが転じて、他者を想うことに通じていくことを説きます。
「他の全ての人々にとっても自己はこの上なく愛おしい。だから害してはならぬ」のだと
自分を想う事と他者を想う事。交わらない二つの線が、たった一つの視点を加えるだけで見事に一つになります。
他の人の事も考えなくちゃいけないと無理矢理に思う必要はありません。自分自身を愛しいと思う気持ちを無理矢理抑え込む必要はありません。
ただそっとその想いを「他者も同じなんだ」と共感することで、そこからまた慈しみの心が生まれてきます。
そうやって自分と他者を共感させるからこそ、私達はこうも感じるのではないでしょうか?
誰かを手助けをしたのに、なぜか自分自身も嬉しい。誰かを励ましにいったつもりが、逆に自分自身も励まされた。
誰かに教えているはずなのに、自分の理解も深まっていく。誰かに救いの手を差し伸べたはずが、自分自身も救われていると感じる。
この話を踏まえると、どうして子供の頃、「自分がされて嫌なことは他の人にもするな!」と叱られたのか、すごく納得がいきました。
福田智彰

2014年11月