エピソード(増一阿含経巻第31-5)
古代インドのコーサラ国の首都シラーヴァスティ。この地には、お釈迦さんがよく滞在していた祇園精舎と呼ばれる寺院がありました。
ある時、お釈迦さんの弟子の一人であるアヌルッダさんは、自分の着ている衣服のほつれを直そうとしていました。
しかし、彼は眼を失明しています。そのため、なかなか針に糸を通すことができません。
ふと彼は、心の中で思いました。 幸いの道を求める人がいるというのなら、誰かこの私のために、針に糸を通してくれないだろうか……、と。
すると、アヌルッダさんの様子を心配したのでしょうか。誰かが彼の方に、ゆっくりと近づいてきました。
「アヌルッダ。私がそれを通してあげますよ」
アヌルッダさんは驚きました。なんと、その声の主は、お釈迦さんだったのです。アヌルッダさんはすぐさま言いました。
「私は今、心の中で思っていました。幸いの道を求める人がいるというのなら、誰か私のために、針に糸を通してくれないだろうか、と。しかし、私は師に向かってそのようなことを思ったのではありません」
お釈迦さんは彼の手から、そっと糸と針を取ります。
「アヌルッダ。世間の人は皆、幸いを求めている。しかし、幸いを求める人の中で、私ほど真剣に福いを求めている者はいないでしょうね」
そう言って、お釈迦さんは針の穴に糸を通しました。そして、最後に詩をもってこう述べました。
「世の中の様々な力は、天や人など、どこにでもある。中でも福の力こそ最も勝れている。この福の力によって仏道を成ずる」
メッセージ
「世間の人は皆、幸いを求めている」という言葉。不幸より幸せの方がいいと思うのは人間誰しもが思うことではないでしょうか。
しかし、私はお釈迦という人物がそのような発言をするとは夢にも思いませんでした。
私が小さな頃から抱いていた仏教のイメージ、お釈迦様が説いた教えというと「煩悩を滅する」「欲望を無くす」といったようなイメージがありました。
私はそれが、如何にも人間っぽくないと感じて仕方ありませんでした。
欲望のない人間。そんな人間はどこを探してもいません。
確かに人は、欲望のために失敗することもあります。しかし、欲があるからこそ幸せを求め努力します。
仏教というと世間でいう「幸いを求める」いうことから全く背を向けて歩んでいく道だと思っていました。
しかしお釈迦さんは「幸いを求める人の中で、私ほど真剣に福(さいわ)いを求めている者はいないでしょうね」と豪語しています。
貪欲とも読み取れるほど、幸せ求めていたと言うお釈迦さんの言葉は、むしろ私にとって親しみを感じ、人間味を感じさせてくれました。
私は知らず知らずのうちに抱いてきた先入観で仏教を縛り付けていた自分に気づきました。仏教を紐解いていくと、とても有意義な奥深いメッセージがあることに気づきました。
さて、皆さんにとって幸せとはなんでしょうか。
有名になる。金持ちになる。結婚する。名誉を得る。権力を得る。
王族として生まれたお釈迦さんは、このような形の幸せは全て得ていました。しかし満足できませんでした。
そんなお釈迦さんが真剣に、そして徹底的に突き詰めた道が、後に仏教と呼ばれる道となりました。
確かに仏教の道、またお釈迦さんのいう「福いの道」は、私達が考える幸せとは異なる視点なのだと考えます。
幸せという言葉は、口にした途端に何故か軽々しくなってしまいます。「これが幸せだ」と決めつけて追い求めると、途端に違うものになってしまう気がしてなりません。そうして求める幸せとお釈迦さんの福いとは確かに違います。
ただその出発点、根っこの所は何も変わらない。ちょっとした最初の思い違いで、最終的に天と地ほどの違いに感じるだけ。
私にとってこのエピソードは、そんな先入観という思い違いを、凝り固まった先入観を紐解く一つのきっかけになったものでした。