第43話「叱る事と怒る事」

エピソード(雜阿含經卷第10-272)

ある時、お釈迦さんが祇園精舎ぎおんしょうじゃにいた時のこと、弟子達の間で喧嘩が起きました。

彼らはまだ年少の者達で、そこまで大きな争いというほどのものではありません。

しかし、少なくとも、周りにいる他の弟子達では対処しきれず、お釈迦さんが直接止めに入らなければならないほどの事態ではあったのでしょう。

ひょっとしたら年少の彼らにとって、お釈迦さんは、少し年配のせんせいぐらいにしか映っていなかったのかもしれません。彼らのお釈迦さんに対する態度は、年長の弟子達ものとは、随分異なるものでした。

結果として、お釈迦さんは、彼らに対して、その場で厳しく叱責しっせきしました。単に叱るだけではなく、彼らの過ちを責め非難したのでした。

何とかその場の事態は収拾しましたが、お釈迦さんの叱責に対し、年少の彼らが反省したのかは、定かではありません。

その後、お釈迦さんは、いつも通り、托鉢たくはつへと向かいました。食事を終え、林の中へ入り、樹の下で坐っていました。

一人になった所で、少し落ち着いて坐っていると、次から次へ先ほどの喧嘩の件が頭に浮かんでくるのでした。

お釈迦さんは思いました。

「少し思い返してみると、彼らは年の若い弟子達だった。それに出家弟子入りしてまだ日が浅い。自分のことだけでも精いっぱいで、せんせいの方にまで気持ちが向かないのかもしれない。

ひょっとしたら、出家弟子入りしたことへの後悔の念があるのかもしれない。昔の生活が恋しくて、憂鬱ゆううつになっているのかもしれない。

私も様々な弟子達と接してきた。時に、彼らの苦しみや悲しみに深く共感し、また私自身もそのことで眠れない夜を過ごしたことがあった。

ただ、責めるだけではなく、どうしてそれが過ちなのか、悪い事なのか。そしてどうしたらいいのか……。今一度、彼らとじっくりと話してみよう。

苦しみや悲しみといった気持ちに共感することのできるこの心と共に……」

お釈迦さんは胸の内で、なんだか温かいものを感じました。その心は告げています。お釈迦さんは、静かに黙って……、許しました。

お釈迦さんは、彼らのいる祇園精舎へと向かうことにしました。

ただし、今回はきちんと席を設け、場を調えることにしました。姿勢や表情など、細かな事にも気を使うことにしました。

お釈迦さんは、準備した場所に喧嘩をした弟子達を連れてくるよう、他の弟子に頼みました。

ここまですることで、きっと年少の弟子達にも、自分達がどれほどの事態を引き起こしてしまったのか、少しは実感できたことでしょう。

彼らは、恥じ入るような表情を浮かべながらやってきました。そして、この場の中心にいるお釈迦さんに、深々と礼をして、席に着きました。

お釈迦さんは彼らに話し始めました。

出家弟子入りした者は、髪を剃り、鉢を持ち、家々を廻り、食べ物を乞う。そう、托鉢を行います。

ただ、この食べ物を乞う乞食こつじきはという行為は、世間において、まるで禁忌を犯すが如く、良く思わない者、いやしく思う者もいます。

しかし、それでも、私達がそうしているのは、それよりも勝る意義があるからなのですよ。

生・老・病・死・憂・悲・悩など、様々な苦しみがあります。その苦の川を渡り、越える、解決する。苦と向き合い、学びきわめる為です。

あなた達は、どうして出家弟子入りをしたのですか?

あなたは、王やそれに対抗する勢力、また賊と呼ばれる者達、その者達に使役しえきされ、命令された人と同じような理由で、出家弟子入りしなければならなかったわけではないでしょう。

あるいは、何かしらの負債を負わされ、その為に働かされている人と同じような理由で、出家弟子入りしなければならなかったわけではないはずです。

恐怖に縛られ、または命を握られて、脅されたわけでもありませんよね。

あなた達にはそれぞれ、苦しみがある。その苦しみを解決しようと、あなた達は出家弟子入りという道を選んだのではないですか?」

「その通りです」と彼らは答えました。お釈迦さんは、続けて言いました。

ではなぜ、相手の事を理解しようともせず、自分がこうあってほしいと望むことだけを考え、自らの考えだけに染まり、自分の考えと合わないからと言って怒り、見境みさかいなく暴れたのですか?」

お釈迦さんは日頃から説いています。煩悩、特にこの三つには気を付けなさいと。

愚癡ぐち。愚かさ。ここでいえば「相手の事を理解しようとしない」ことに当たります。

貪欲とんよく。欲望。ここでいえば「自分がこうあってほしいと望むことだけを考え、自らの考えだけに染まる」ことに当たります。

瞋恚しんに。怒り。ここでいえば「自分の考えと合わないからと言って怒り、見境みさかいなく暴れる」ことに当たります。

苦しみの解決を語るのであれば、苦しみと向き合わずして語ることはできません。そして苦しみと向き合うと、煩悩の話は必ず関連してきます。

これらの事と向き合わずして、仏道を語ることはできません。

「道を外れ、仏の語ること教えを失念しました。不安定になり、結果的に、周りに迷惑をかけ、混乱を引き起こした……。

苦しみの解決を望んで出家弟子入りしたはずのあなた達が、その苦しみ自体にも向き合わない。そして苦しみと向き合うことの大切さ、私が日頃から語っていることも忘れる……。

結果的にあなた達は今もまた苦しみ、そして、その周囲にもその苦しみを与えたわけです。

それは例えるならば、血で血を洗うように、諸悪を捨てようと願い、諸悪より離れるも、また諸悪に染まっているようなものです。

これは出家弟子入りしていようがいまいが、どこでも同じこと、何にでも言えることです。

一体何故、あなた達は今ここにいるのでしょうか。

一体何を、あなた達はしたかったのででしょうか。

初心を忘れ、本来の所を忘れ、解決したかったははずの苦しみにかえって染まってしまっています。

それは何故なのでしょうか……。

例えば、自分にとって不都合なものを全部、焼却炉に投げ捨てても、その場所は自分自身の掃き溜めとなるだけ。自分にとって向き合いたくない場所そのものとなってしまうだけです。

そこは、自分にとって必要なものと、必要でないものを選り分けることのできる場所とはなりません。自分にとって有益な場所とはならないのです。

欲に飲まれ、怒りに飲まれ、我を忘れ、不安定に取り乱す。それは言い換えれば、自分にとって不都合なこと、つまり苦しみに向き合わず、否定して、投げ捨てて、結果的に、それを放り捨てた場所ですら、自分にとって不都合なもの、苦しみとなってしまっているのです。

欲に飲まれ、怒りに飲まれ、害を生み出す。自分にも周囲にも苦しみを生み出している。これは善くありません。

どうしてこのような事になってしまうのか。それをよく観察しなさい。

どうしてこのような想いを抱くのか。それをよく観察しなさい。

まずはそうやって観察して、つまり向き合うことから、何事も始まります。そうすればきっと、そこは自分にとって、有益な所となるはずです。

まずはそうして、自己を観察しなさい」

お釈迦さんは彼らに分かってもらえるようにと心掛けながら、今、彼らがやるべきことを一つ一つ丁寧に説明しました。

そして最後にこう言って締めくくりました。

「よく聞いてくれる弟子はこのように考えるでしょう。

『この世の中で、何かを得ようとする時に、一つも間違えず、過ちを犯さない者がいるだろうか……。そんな人はいない』と。

例えば、答えを得ようとする時に、何一つ間違えない人なんていないでしょう。苦しみの解決を手に入れようとする時に、何一つ間違えない人なんていません。

誰でも、何にでも、過ちを犯すことはあるでしょう。

このことを知る事で、世の中において、取る所が無くなるといえばいいのでしょうか。

先ほどいった焼却炉のたとえです。

あなた達は喧嘩した際、自分の考えに合わないと、自分にとってこいつは邪魔だと、不都合な相手を排除しようとしました。それはまるで、気に食わない者を焼却炉に投げ捨てようとする行為です。

そこに投げ捨てさえすれば、何もかもが解決できると思って……。

自分の苦しみは嫌なものだと、自分にとって不都合なものだと考えますか?

自分の煩悩は嫌なものだと、自分にとって不都合なものだと考えますか?

まずは自己を観察なさい。まずは自己と向き合いなさい。

今のままでは、自分にとって不都合なものは、きっと焼却炉に投げ捨てようとしてしまうでしょう。

そこに投げ捨てさえすれば、何もかもが解決できると思って……。

そんな何もかも滅却解決できる焼却炉なんてありません。そんな焼却炉のような特別な所取る所なんてありません。

取る所無き者には、おのずと見えてくるでしょう。そこからようやく修行の第一歩がはじまるのです」

メッセージ

エピソード部分は、太字部分は原典の沿った翻訳ですが、それ以外は補足として加筆致しました。

「怒ること」と「叱ること」

私達人間には怒りという感情があります。しかし、それはどこからどこまでが怒りでどこからどこまでが怒りではないのでしょうか。

例えば、私自身を例にあげると、誰かに何かを注意する時、問題を指摘する時、論理的な思考だけで動いているわけではなく、胸の内には、何かしらの感情が湧いているのを感じます。

その感情は、怒りなのでしょうか?

人によっては、それは怒りではないという人もいるかもしれません。もちろん、頭にきて感情が抑えられないというような類のものではありません。

ただし、不快に感じたことに対して、湧き出てきた感情という意味では同じです。

不快という言葉も難しいですが、道義的に快く思わない、或いは他の方に迷惑がかかる行為を良く思わないという意味での不快です。

結局のところ、人の心に関して、どこからどこまでが怒りなのか、そうでないのか、定義することは難しいのかもしれません。

しかし、感情があるということ、心から湧き出でてくる何かがあるということは、紛れもない事実です。

「怒ること」と「叱ること」は違うと言葉にすることもできますが、論理的に、科学的に、はっきりとした線引きができるかといえば、それは不可能でしょう。少なくとも、現段階では不可能です。

しかし、「怒ること」と「叱ること」にはっきりとした線引きがなくとも、そこには大きな違いはあるということを、私達は漠然ながらにも知っています。

焼却炉の喩え

「怒ること」と「叱ること」には違いがあるのに、その違いが曖昧だからこそ、私達は時に失敗し、時に反省し、それを繰り返します。

繰り返し向き合い、学ぶことで、少しずつ、ただ単に怒るだけでない、叱るということを感覚としてつかむことができるのでしょう。

しかし、その感覚に、完璧な答えなどありません。

お釈迦さん自身もまた、今回のエピソードのように、時には弟子を叱り、時にはちょっと言いすぎたかもしれないと反省することがあったのですから。

もし仮に、叱るという感覚をつかんだとて、それは完璧でもなければ、コピー&ペーストできるような、何か特定の答えが用意されているというわけでもありません。

ましてや、そこに放り込めば全てを解決してくれる焼却炉のような特別な所、特定の答えなんてないわけです。

以上のことは、自己を観察すれば、自分と向き合うことを忘れなければ、自ずと見えてくることなのではないでしょうか。

特別な答えはない。失敗もあって、間違えもある。しかし、答えは自分の中にある。私にとっては、なんとも矛盾するようで、ありきたりだけれども、ありがたい答えに聞こえます。

2021年6月

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