仏教エピソード㉔「国王の疑問」

エピソード(雑阿含経巻第46-1238~1239)

ある時、祇園精舎にいたお釈迦さんの下に、パセーナディ王がやってきました。王様は日頃から抱いていた疑問をお釈迦さんに投げかけました。

「お釈迦さんの説く法は確かに素晴らしい。しかしそれは善き友、善き仲間、善き人々に恵まれているからこそ通じることなのではないですか?

悪しき友、悪しき仲間、悪しき人々に取り巻かれている人のためのものではありませんよね?」

「その通りです。実は以前、弟子のアーナンダにこんな話をしたことがあります。

 <中略> 第22話「善き友」

『ですから善き友を持ち、善き仲間がいるということは修行の全てであると知りなさい』と私はアーナンダに言いました。王様。ですからあなたはこのように学んで下さい。

私は善き友となろう。善き仲間となって、善き人々に取り囲まれるようになろう……と。

それには不放逸(ふほういつ)、つまり怠らないことが肝心です。まずこの教えを実践してください」

王様はしばらく黙って考えました。そしてまた浮かび上がってきた疑問を投げかけました。

「もしあなたのおっしゃるように根気強く怠らなければ、たったそれだけで現状は良くなり、後々も良くなっていくものですか?」

「……そうですね。もしあなたが王として怠らずに努め励んでいれば、その姿は誰かの目に映ります。

身近な人、例えばあなたの妻である王妃。彼女はあなたの一生懸命な姿を見て、こう思うでしょう。

『夫は王として毎日怠らずに努め励んでいる。私も何かの役に立ちたい』

またそのように努め励む夫婦の姿は、あなた達の子供の目にも映ります。彼らはあなた達夫婦の一生懸命な姿を見て、こう思うでしょう。

『両親は毎日怠らずに努め励んでいる。私達も何かしなくては!』

またそのように努め励む家族の姿は、あなたの部下や大臣や役人達の目にも映ります。彼らの中にはあなた達家族の一生懸命な姿を見て、こう思う者もいるでしょう。

『我が主である国王、そして家族共に毎日怠らずに励んでいらっしゃる。私達も見習わなくては』

またそのように彼らの務め励む姿は、あなたの国の民の目にも映ります。国民の中にはあなた達国家の者達の一生懸命な姿を見て、こう思う者もいるでしょう。

『私達の国の王族や役人達は毎日怠らずに励んでくれる。私も頑張らなくては』

パセーナディ王。もしあなたが怠ることなく励んでいれば、結果としてあなた自身はそのことによって護られます。妻や家族もまた自らを保ち、結果として国庫は護られ、国土は豊かになるでしょう」

メッセージ

今回の話は前半部分で 第22話「善き友」の話がまるまる引用されています。私はその22話のメッセージの中で、善悪はそう簡単に分かるものではないと記しました。

現実問題として、私達が良かれと思ってやったことが悪いように働くこともあれば、反対にそんなつもりはなくとも良い結果に結びついたりすることもあります。

善いと思うことをすれば必ず善い結果に結びつくというわけではありません。

ただ一つだけ言えるのは、善でも悪でも、どちらか一方だけに囚われてしまうとロクな結果には結びつかないことです。

ですから、仏教で用いる善は、一般的に考える善し悪しの善と根本的に違うものだと私は感じています。

例えば 第22話、善知識が単なる事柄ではなく人を指すように。

また 第2話「頑張り屋のアヌルッダさん」などの中道の話のように。

この仏教エピソードを通して皆さんにもどこか感じて頂けたら幸いです。

さて今回の話においても、私は上記の事について感じました。

善き友を持つことは修行の全て。そこから導き出されるお釈迦さんの善き友に関する答えに、私は深く考えさせられました。

なぜなら善き友を持つには不放逸、自分が怠らないことで善き友に恵まれるというのですから。

大抵私達は友達を持とうとする時に、まず相手にアプローチしようと思うはずです。つまり自分から他人に働きかけることを一番に思いつきます。

そうやって自分が友達を作ろうとするのも確かに友達を持つ方法の一つです。

しかし、それが善き友を作ろうということになれば、まず私達の行動として表れるのは、自分が善い相手を選ぼうとする考えが働きます。

また同じように周りを善き仲間にしようすれば、他人を善いように変えようとする考えも働くかもしれません。

自分が選んだ善き人を友達にしようとアプローチする。周りにいる仲間を、善き人にしようとする。そうして自分から他人に働きかけます。

しかし当然ですが、他人の在り方を自分自身が意図して決めることはできません。

もしそこで無理矢理にでも自分の意図するようにしようとすれば、反発や反感、不信感等が生まれてくるのは当たり前の話です。

自分の意図を他人に強要しても、その関係は善いものとはなるはずがありません。

下手をすれば、そうやって自分にとって都合の良いだけの人にしようとしてしまう可能性だってあります。

そんなものが善き友、善き仲間と言えるとは到底思えません。

ですからお釈迦さんの答えは、相手に働きかけることを言うのではなく、まず自分自身に働きかけることを言っています。

だからこそまず自分が怠らないという実践の話に繋がっているのでしょう。

自分が善き友になろうと、まずは自分自身に働きかけ、それが結果的に善き友を持つことに繋がっていきます。そうやって友達や仲間が自然とできていく。

自分が善き友を作るのではなくて、自分に善き友ができるわけです。

考えてみれば、自分の意図が働くところが、自分以外にあるはずがありません。いや、もっと言えば、自分の身体でさえ、想いでさえ、自分の意図するように動かないことが多々あります。

そういう意味では、私達が意図したり、意識したりする意志の力なんていうのは、本当に微々たるものなのかもしれません。

しかしそのことを踏まえながらも、その自分の小さな小さな意志が結果として大きな流れに繋がっていく可能性も、この話は伝えてくれています。

怠らないという自分に一人に対する実践が、結果的に周りの無数の人達に自ずと伝わっていき、多くの善き仲間となっていく。

まずは自分がその小さな意志で、自分の行動を起こすことによって、他人に様々な影響が伝わっていく様子は、この話からも感じ取ることができます。

実をいうとそれは、前回の 第23話「縁りて起こる」の縁起の話で、私の感じ取ったメッセージの書ききれなかった部分でもあります。

私達は様々な関係性の中で生きています。そしてその事実は、関係性の中で、自分が何かの原因となって、結果として様々ものに影響を与えうる存在であることにも気づかせてくれます。

全体から見ればほんの小さな私達の一つ行動も、そうやって全体に影響を及ぼす大きな要素となっています。

それを見誤ると、結果として善き人々に恵まれる環境は調っていかないのかもしれません。

となると、善き友を持つことが修行の全てというお釈迦さんの言葉は、言い得て妙だと言えますね。

2015年7月

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