仏教エピソード㊻「わたし」
自己わたしはわたしではない、わたしの所有物ものでない。重病を患ったケーマが看病してくれるダーサカさんに伝えたかったこととは?
仏教エピソード㊺「煩悩は悟りの道」
煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)は禅宗においてはよく見かける言葉です。禅語として挙げられる言葉を紐解けば、このエピソードのように、お釈迦さんの時代へと繋がっています。
仏教エピソード㊹「キンスカの木と悟りと城と」
「如何に悟るのか」は「キンスカの木とはどんな木なのか」と尋ねるようなものである。
仏教エピソード㊸「叱る事と怒る事」
叱る事と怒る事、その違いは何なのでしょうか? お釈迦さんも叱る時は叱ります。時には少し言い過ぎてしまうこともありました。今回は、お釈迦さんの「叱る」が見えるエピソードです。
仏教エピソード㊷「勝友」
モッガラーナさん、神通力について親友に語るエピソード。モッガラーナさんの神通力は、人々をどこか安心させる、巧みな表現力。親友のサーリプッタさんには「神通力でお釈迦さんと会っているわけではない」と語っています。
仏教エピソード㊶「悟りはあるの? 悟りはないの?」
「悟りはあるといえばあるのですよ。そして、ないと言えばないんだよ」この話を読んだとき、そんな老師の言葉を思い出しました。
仏教エピソード㊵「滅について」
「滅」という言葉は、語源を調べると、実に様々な意味が込められています。今回のエピソードでは、「滅」について、お釈迦さんの弟子であるサーリプッタさんとアナンダさんが語り合っています。
仏教エピソード㊴「壊れるという法は壊れない」
もし、矛盾しないのなら、それは真実ではない
仏教エピソード㊳「自己を見つめる」
非我や無我は、仏教でよく出てくる言葉の一つ、そして誤解されやすい言葉です。そもそも、我という言葉自体も、日本語と仏教の間に齟齬があります。
仏教エピソード㊲「観察」
見ようとすれば見えなくなることもあります。見ていると思うからこそ、見えなくなることもあります。見えることに限界だってあります。「見」にも実はたくさんあって、それを知るにも、じっくり観察しなければなりません。