第18話「学びの秘訣」

今回は曹洞宗の道元禅師さんの説法から二つご紹介します。どちらもが自分の見解に固執しないという内容ですが、最後まで吟味してお読みください。

エピソード(正法眼蔵随聞記6-14&5-1)

世間の人自ら云く

ある日、道元禅師さんはこのような話をされました。

世間の人は自らこう言います。

「師の教えの言うことを聞いても私の考えに合いません」

私が思うにこの言葉は間違っています。何故かというと、もし仏典などの道理を心得たのであれば、自分の意に沿わぬところは全て間違いだと思うでしょうか?

もしそうなら、何故師に尋ねるのでしょう?

ひょっとしたら日頃から陥っている

自分の思い込みに基づいてこう言うのでしょうか?

もしそうなら、ずっと昔から続く根拠のない妄想ではないではなかろうか。

仏道を学ぶ者の心掛けとは、自分の気持ちに合わなくても、師の言葉、仏典の言葉ならば、ひとまずそれに随い、元からある自分の見解を捨てて改めていく。

この心が仏道を学ぶ秘訣です。

昔、同輩の者の中に自らの見解に固執して、指導者を訪ねても、「自分の意に合わぬ!」と言って、自分の意見に適うものだけに囚われて、一生虚しく仏法と会えなかった者を見ました。

そこで私は気がつきました。

仏道を学ぶにはそれではいけない。そう思って、師匠の言葉に随って、とりあえずその道理を得ました。

その後、経典を読んでいるとこのように書いてありました。

「仏法を学ぼうと思うのなら、過去・現在・未来の心を相続することがないように」と。

それでわかりました。

以前の考えをいつまでも記憶に留めずに、その度に改めていくべきなのです。

孔子の書にもこう記されていました。

「忠言は耳に逆う」

自分のためになる忠告の言葉は気持ちよく耳には入ってきません。

しかし、良い気持ちがしなくてもしっかりとその言葉を聞けば、結局は自分のためになるのです。

学道の人自解を執する事なかれ

ある日、一同集まっての法話の席でのこと。

道元禅師さんはこのような話をされました。

仏道を学ぶ人は自分の見解に固執してはいけません。

例え“わかっている”と思う所があったとしても、「ひょっとしたら確かとは言えないんじゃないか?」「これよりもよい考えがあるのんじゃないか?」と思って、広くその道に通じた指導者を訪ね、先人たちの言葉をも調べてみるべきです。

また先人の言葉であろうとも、それに執着してはいけません。

「もしかしたらこれは正しくないんじゃないか? 信じるには値するが…」と、念入りに考えて、勝れたほうがあればその度に取り入れるべきです。

昔、南陽慧忠国師さんのところに、宮中に仕える僧侶がやってきました。

国師さんは彼に問いました。

「南の方の草の色は何色でしたか?」

「黄色でしたよ」

すると国師さんは自分に仕えている小坊主さんにも同じ質問をしました。

小坊主さんも同じく「黄色です」と答えました。

そこで国師さんは、宮中からきた僧侶にこう言ったそうです。

「あなたの見解は小坊主さんの見解を超えていない。

あなたもこの小坊主さんも黄色と言いましたね。となれば、小坊主さんもあなたと同じく、宮中に仕える僧のように国皇の師として、真実の色を答えることができます。

あなたの見るところは、当たり前以上ではありません」

このやりとりについて、後になってある指導者がこう言いました。

「宮中の僧侶の答えが当たり前以上でないことの一体何が悪い?

小坊主さんと同じく真実の色を説いています。これこそ真の指導者だろう」

このように、その人は国師さんの意義を用いませんでした。

昔の人の言葉を用いなくても、ただ本当の道理を知っておけばいいのです。

疑心を抱くのはよくありませんが、信じるべきでない事に固執して、探るべき意義をよく考えないのもよくありません。

メッセージ

これら二つの話には、学道(学ぶ者)にとってのアドバイスが書かれています。

一つ目の話は私の中でこのように要約しました。

「自分の考えに固執してはいけない。忠告の言葉は耳に痛いですが、最終的には自分のためになる。だから自分の考えに合わなくても、とりあえず指導者の指示に随いなさい」と。

しかし二つ目の話では、同じく自分の考えに固執してはいけないという内容ですが、要約するとこのように書かれています。

「先人の言葉すらも固執してはいけない。それがたとえ立派な指導者であったとされる先人の言葉であっても固執してはいけません。疑心を抱くのはよくありませんが、信じるべきでない事に固執するのもよくありません」と。

どちらの話も確かに納得のいくように書かれています。

しかし、片方ではとりあえず指導者を信じて随いなさいと言い、もう片方ではどんなに立派な指導者とされる先人の言葉であれ、信じ込むなと言っているように受け取れます。

それでは結局一体どうすればいいんだ!? 信じればいいのか!? 疑えばいいのか!? どっちなんだ!?

皆さんもわからなくなってしまうのではないでしょうか。

ただ私はどちらもとりあえず納得がいくので、信じる信じないは別として、とりあえず先人の言葉として受け止めました。

それから時が経ち、再びこの話を読んでみると、確かに受け取り方が変わりました。

この二つの話は同じ固執しないことを、一つは信じる側面から、もう一つは疑う側面から、巧みに表現していると思うのです。

皆さんは信じることと疑うことは違うことだと思いますか?

恐らくは全く正反対のことだと考えるでしょう。しかし、信じることも疑うことも大して違いはありません。

これに関して私はよく手を用いてお話します。

仮に私が「あなたの手の内に真実があります」と応えたとしましょう。

その答えを信じた人達は、自分の手を見て信じます。自分の手の中には真実という答えがあると。

そうして自分の手の平を仰ぎ見ては、目を凝らして自分の手を見ます。

よく見よう、よく見ようと一心不乱に自分の手を顔に近づけて見続けます。

自分は目を開いてしっかりと見ているつもりかもしれません。しかし、実際は目を閉じているのと変わりがありません。

目を開いているつもりでも、手に覆われて何も見えなくなっているのですから。

反対に「そんなもんは嘘だ!」と端から疑いを持っているとどうでしょう?

自分は手から視線を逸らそうと必至になって手を見ようともしません。それでは目を閉じているのと変わりありません。

手に一体どんな意味があるのか、見ようともしないのですから。

私達はそれが真実であるかないかに関係なく、気に入った答えには前者のような態度となり、気に入らない答えには後者のような態度になりがちです。

しかし、信じること、疑うこと、そのどちらかに固執してしまうと、結局は何も見えなくなってしまいます。それでは何かを学ぼうと思っても、何も学びとることができません。

また勉強や研究などの学びの場でのことを考えてみてください。

学んでいく中で、今まで疑問に思っていたことについて信じるに足る答えを見つけます。

しかし答えが出たとしても、学問は深めれば深めるほど、その答えから更に多くの疑問点が生まれてきます。

疑問点が生まれては、その疑問を解くために学び、また信頼に足る答えに出会います。

そしてまた知れば知るほど、また新たな疑問点が生まれてきます。

このように疑問と答えは表裏一体です。

学ぶということは、信じるだけでは進歩もなく、疑うだけでは前進できません。

しかし私達はついついどちらかにだけに偏ってしまいます。

信じるか、疑うか、そんなことはどっちでもかまいません。ただ、信じることも疑うことも学ぶ上では欠かせません。

しかし、どちらか一方だけに囚われるとそれは大きな落とし穴となります。

大切なことはしっかりと見ることです。そうしなければ学ぶことすらできません。それには固執しないこと肝心です。それが学ぶ者の心掛け。

それが学ぶ秘訣なのだと思います。

2014年9月


 

国師とは、国家の師表たるべき高僧に対して皇帝より与えられる尊称のこと。南陽慧忠さんは中国、唐の時代の禅僧です。
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