エピソード(雑阿含経巻第44-1188「尊重経」)
それは、お釈迦さんが悟りを開いてまだ間もない時のことです。お釈迦さんは菩提樹の下で坐っていました。
その時、ふとこんな思いが浮かびました。
「慎ましやかに敬う事がないというのは苦しい。
例えば、自分にとって、他の何か特別な存在があるだけで、安心が生まれ、大義も生まれる。しかし、そのような畏怖するところがなければ、大義もなく衰退の一途をたどるだろう。
立派な修行者や先生、あるいは天や神……。私は何を敬い尊び、拠り所とすべきだろうか」
しかしまた、お釈迦さんはこう思いました。
「いや……、そのような拠り所はない。ただ法があるだけ。これによって私は目が覚めたのだった。私はこれを敬い尊び、これを拠り所とすべきだろう」
そう思い至った時、お釈迦さんの心には、まるで天の声のような、こんな想いが湧いてきました。
「然り然り……」
メッセージ
今回、ご紹介したエピソード。お釈迦さんが悟りを開いた直後の出来事として描かれ、そして、お釈迦さんの内面、その葛藤の様子が表現されています。
何か特別な拠り所として、「他者との関わり」を求めている。整理してみると、お釈迦さんの葛藤は、この「他者との関わり」から生まれているように思います。
考えてみれば不思議なもので、お釈迦さんは自らの苦しみを解決するために、王族としての地位や財産など、他との関わりを一切投げ捨てて、出家しました。
そして菩提樹の下で悟りを開くまで、苦しみを解決するという自分の目的のために、自らの道を歩んできました。
それまでずっと、自分の方に向いていた目が、なぜか急に、他者に目を向けるようになった。
言い換えてみれば、菩提樹の下で悟りを開いたからこそ、「他者との関わり」から目を背けることができないことに気づいたのかもしれません。
私達は自分一人では生きていけません。自分と言う存在は他の多くの支えがあってこそ成り立ちます。
それはお釈迦さんが悟りを開いて初めての言葉。
これがあれば、これがある。これ生ずれば、これ生ず。これなければ、これがない。これ滅すれば、これ滅す( ※第23話「縁りて起こる」)
こちらからも窺い知ることができます。
にもかかわらず、自分一人で何でも解決できるように考えるのは苦しいことです。だからこそ、お釈迦さんは「他者との関わり」を求め、悩み考えたのでしょう。
そしてその他者が、何より自分より優れた特別な存在であれば、より強固な拠り所となると考えました。
しかし、「法」はそうとも言い難い。他の人を頼りきっても、その頼りにしていたものは、いつか居なくなります。( ※第26話「あらゆるものは変わりゆく」)
そして何より、自分の苦しみを解決できるのは自分以外に他なりません。
例えば自分が病気になった時、他の人が代わりに病気になってくれません。自分が苦しい時、他の人が代わりに自分の苦しみを背負ってくれるわけではないのです。
もちろんサポートはできますが、自分の事は他の誰も代われません。
だからこそ、法を拠り所とし、自分を拠り所とする。( ※第9話「灯火」)そういう結論に至ったのだと思います。
自分という存在は、他の存在が不可欠ですが、自分という存在は、他の存在と代わることができない。
このエピソードは、そんな「法」の探る一つの手がかりとなるのではないでしょうか?