エピソード(雑阿含経巻第1-1「無常経」)
ある時、祇園精舎でのこと。お釈迦さんは弟子達にこのような話をしました。
「あなたの目の前にあるものをごらんなさい。今、目の前にあるそれは、ずっとそこにあるわけではありません。
いつか、朽ちる。或いは、壊れる。そのようにして、今ある形では、なくなってしまいます。
あなたの目の前にあるもの、あなたの目に映るすべて、人も物も、全ては変化しています。
いつまでも変らずにあるものなんてない。常にずっとあるものはない。これを無常と言います。
あらゆるものは変化する。このあり方を観てください。
そして、このような観察は、私は正しい観察だと考えます。
正しく観察する人は、距離を置こうとする気持ちが生まれるでしょう。なぜなら観察する対象に飲みこまれてしまったら、観察しようがありませんから。
このように距離を置く者は、欲望に飲み込まれることはないでしょう。欲望を観察することも、また同じことだからです。
そうして、欲望に飲み込まれることがない、喜んで欲望に支配されるなんて事がない。私はそれを心の自由と説くのです。
心と言えば、あなたの目に映る身体と違い、心は目には見えません。あなたの頭の中も目には見えません。
時に悲しく、時に楽しく、心はコロコロと大いに変化します。
考える事、思う事、察する事、あなたの頭の中は、その一瞬一瞬で変化しています。
私たちが心と呼ぶもの、頭の中と言っているものもまた、無常です。あなたの感じることも、考えることも、あなたの内にあるものもまたすべて、無常です。
あらゆるものは変化する。それは胸の内、頭の中といえども同じことです。
そして、このような観察は、私は正しい観察だと考えます。
正しく観察する人は、距離を置こうとする気持ちが生まれるでしょう。なぜなら観察する対象に飲み込まれてしまったら、観察しようがありませんから。
このように距離を置く者は、喜んで欲望に支配されることがない。私はそれを心の自由と説くのです。
このように皆さん。心の自由と私が説くこと。それを自身で納得したいのであれば、自分自身に向き合って下さい。自分で自身を検証してください。そうすれば納得ができるはずです。
一度立ち止まって観てください。そうすれば自然と見えてくるでしょう。やるべきことは自ずと見えてくるでしょう。
こうして無常を観るように、私が他にも説いていた事、苦も、空も、非我なども、同じようなことなんですよ」
メッセージ
あらゆるものは変化している。即ち、無常。常なるものはない。
私にとって、この無常は、仏教の教えの中で一番納得しやすい、わかりやすいものです。
なぜなら、あらゆるものが教えてくれるからです。
例えば、川辺に立ち並ぶ木々も。春や夏や秋や冬と、変化に富んだ姿を見せます。例えばどれだけ小さなものも。原子や元素や電子に微粒子、変わりゆく波のような性質を持ちます。例えばどれほど大きなものも。山や海、地球や宇宙も。常に変化し続けています。
変わっていく。それは成長でもあれば、老いていくということでもあり、病気になるということでもあれば、病気が治るということでもあり。死ぬということでもあれば、生まれるということでもあります。
細胞が生まれては死滅する。私が生きているということも、これも常に変わり続けているということです。
例えを言えば、きりがありません。あらゆるものを観察すれば、自ずと浮かび上がってくる事実。そして、このような事実は、じっくりと観察するからこそ、見えてくるものなのでしょう。
観察。注意深く見る事。辞書には「物事の状態や変化を客観的に注意深く見ること」とも書かれています。
しかし、この観察も、見るということも、なかなか難しいものです。
見ようとすれば見えなくなることもあります。見ていると思うからこそ、見えなくなることもあります。見えることに限界だってあります。
「見」にも実はたくさんあって、それを知るにも、じっくり観察しなければなりません。
そして観察には、距離を置く必要があります。
もちろん、離れすぎては見えません。目を背けても見えません。
それでは、近ければいいのかといえば、そうでもありません。
近すぎれば、目が覆われてしまいます。いや、そもそも、同化してしまったら見るも何もありません。
確かに、自分で自分は見えません。眼は眼を見ることはできません。しかし、例えば鏡を一枚置くように、そこに距離を置けば、ちゃんと観ることはできます。
たとえ、距離を置くことが自分への嫌悪感から始まったものだとしても、距離を置けば、その嫌悪感ですら観察することができます。観察できているのなら、嫌悪感に飲まれることはありません。
そしてそれは、自分の一面にしかすぎないと観察することもできるはずです。観察は、自分の意外な一面も教えてくれるはずです。
自分は自分のはずなのに、自分は自分が直接見えません。だから、案外知らないことがたくさんあります。
そしてそれを知るにも、まずじっくり観察しなければいけません。
そうして、その事実のまた違った一面を観察することができるでしょう。観察は、その時とは受けた印象とはまるで違う受け取り方を教えてくれるはずです。
ならば、たとえその観察が嫌悪感から始まったものだとしても、嫌悪感があるおかげでできたことなのですから、その嫌悪感だってきっと受け入れられるはずです。
お経の文字にはそこまで書いていません。こういう受け取り方が正解かどうかもわかりません。しかし、私にはそのようにも聞こえる、受け取ることもできるのです。