第19話「愛と苦しみ」

エピソード(中阿含経巻第60ー216「愛生経」)

お釈迦さんがシラーヴァスティにいた頃の出来事です。

とある夫婦の間に一人の赤ん坊が生まれました。特に父親は我が子の誕生を喜び、大層可愛がりました。

しかしある日のこと、赤ん坊は突然息を引き取りました。

自分の愛する子供を亡くした父親は悲しみに打ちひしがれました。

食事も喉を通らず、身形(みなり)にも気を配らなくなり、どんどんみすぼらしい姿になっていきました。

頭にはいつも赤ん坊が亡くなった時の記憶が蘇りました。毎日ふらふらと力なく彷徨い歩き、最後には赤ん坊を埋めた場所へ行っては涙を流しました。

そしてある日、徘徊していた父親は偶然にもお釈迦さんがいる祇園精舎に行き着きました。

その姿を見たお釈迦さんは彼に問いかけました。

「そこのあなた。そんな上の空でふらふらして、一体何があったのですか?」

「上の空? そりゃそうかもしれませんね。心安らかにいられるはずありませんよ。私の唯一無二の愛する子。とても可愛がり、いつも温かく見守っていました。

その最愛の我が子が突然、何の前触れも無く死んでしまった。もう何もする気が起きません。毎日ただ我が子のことを思い出しては涙しか出ない……」

理由を聞いたお釈迦さんは静かにこう言いました。

「そうですね。その通りです。愛する者を失うのはとても苦しいことですね。そのように愛すればこそ、愁い、悲しみ、嘆き、絶望や苦悩など、苦しみは生まれてきます」

「はぁ!? 愛から苦しみが生まれるというのですか? 馬鹿馬鹿しい。愛からは喜びや楽しみ、そして幸せが生まれるのですよ。我が子を愛した日々は本当に幸せだったのです」

お釈迦さんは二度三度と彼に説明を試みましたが、彼は「違う!違う!」と言うばかりで全く聞く耳を持ちませんでした。結局、彼は怒ってその場を去って行きました。

ちょうどその頃、祇園精舎の門の近くでは多くの人だかりができていました。彼らは全員、ギャンブル目的で集まった人達でした。

彼らの様子が目に入った父親はふと思いました

「ギャンブルねぇ……。でもひょっとしたら洞察力、分析力に関しては、ギャンブラーほど勝れた者はいないかもしれないなぁ。試しにさっきの坊主が言ってたことをどう思うか聞いてみよう」

そして父親は腕利きと評判のギャンブラーを探しました。先ほどのお釈迦さんとの話について問われたギャンブラーはこう答えました。

「おまえよぉ……。どうして愛から苦しみが生まれるってんだ。愛からは、そりゃあ喜びとか幸せとか、そういったもんが生まれるに決まってんだろう」

「私も同意見です。やっぱりそうですよね」

そう父親は頷いて帰っていきました。

それから瞬く間に賭博の場では、この出来事が話題となりました。

愛から苦しみが生まれる。そんなわけのわからんことを言う坊主がいる。噂は次第に町中へと広がり、王宮にも伝わっていきました。

コーサラ国の王であるパセーナディもこの噂を耳にしました。王様は噂の当事者がお釈迦さんであることを知り、急いで妻のマーリッカに尋ねました。

「お前が日頃から先生として慕っているお釈迦さんがこんな事を言っているそうだ。愛から苦しみが生まれてくると。私もそれはどうかと思うぞ」

「私はその通りだと思いますよ」

「……。先生が言うことに教え子は『はい』と言うもんだからな」

「それならお釈迦さんに直接問うてみれば良いではないですか」

そこで王様はお釈迦さんに使いの者を送り、詳しく聞いてくるように命じました。使者は祇園精舎へと向かい、お釈迦さんに問いました。

「近頃町中では『愛から苦しみが生まれると説く僧侶がいる』という噂が流れています。私は王様より、噂の張本人であるあなた様に詳しく事情を聴いてくるように命じられました」

するとお釈迦さんは使者に向かってこう問いかけました。

「わかりました。それではあなたはこれを聞いてどう思いますか?

例えば、ある若者の話です。

その若者にはこの世で誰よりも愛する恋人がいました。お互いに深く愛し合っていました。しかし、その恋人の両親や親族は若者との交際を一切認めませんでした。

しかもあろうことか、他の結婚相手を見つけてきて若者との仲を引き裂こうとしました。

愛しているのにも関わらず強引に別れさせられる者は一体どのように思うでしょうか?

またある夫婦の話です。

その夫婦は互いに尊敬し、大切に思い合う仲睦まじい夫婦でした。しかし、ある日突然最愛の伴侶が亡くなってしまいました。

愛しているのにも関わらず、ある日突然別れを迎えた者は一体どのように思うでしょうか?

それは、夫であれ、妻であれ、子供であれ、両親であれ同じことです」

使者はそれを聞いてこう答えました。

「私にも愛するものがいます。もし私がその若者なら彼女の手を引いて共に死を選ぶかもしれません。もし私が夫なら憔悴しきって、亡くなった最愛の妻を探し求めて彷徨い歩くかもしれません」

それから使者は急いで王宮に戻り、お釈迦さんとのやり取りを王様に伝えました。

「王様。お釈迦さんの言う通り、愛が生まれる時に苦しみが生まれました」

それを聞いた王様は首を傾げ、隣にいた王妃に問いました。

「愛から苦しみが生まれるのだとさ」

「それでは私の夫である王に問いましょう。あなたは私達の子供を愛していますか?」

「もちろん。大切に思っているさ」

「それでは王はこの国を、民を愛していますか?」

「もちろん。私が王としていれるのも、この国と民がいればこそだ」

「では、あなたは私を愛していますか?」

「もちろんだとも」

「もし私と別れることになったら寂しい?」

「寂しいどころではない。私は嘆き悲しみ、そして苦しむだろう」

「しかしいずれ、どちらが先となるにせよ、最期のお別れはきますよね。愛するものとの別れは、それはどんな形であれ苦しいことです。

でもいつか必ず何らかの形で、愛するものと別れなければならない時がくるのです。愛が生まれる時苦しみが生まれるとはそういうことなのでしょう」

「……。そなたの言う通りだ。人にとって別れは辛い。特にそれが愛おしければ愛おしいほど、その別れは辛いものとなる。しかし出会えば何時しか別れの時がくるのか……」

それ以後、王は妻の王妃と共にお釈迦さんを先生として慕うようになりました。

メッセージ

私達にとって愛するものとの別れは、どんな形であれ辛く悲しいものです。その人が自分にとって大切な存在であればあるほど、その別れは苦しいものとなります。

このように愛するものとの別れにより感じる苦しみを愛別離苦と言います。

もちろん愛するものとは、人だけでなく、自分の大切な存在全てが当てはまります。自分が大切にしている物を失うこともまた、私達にとっては苦しいことです。

この愛別離苦は、死や病気や老いと同じく、逃れられない苦しみの一つとして挙げられます。

確かに自分とって大切な存在と離れ離れになることは苦しいことです。ですから結果として「愛から苦しみが生まれる」というお釈迦さんの発言も理解できないわけではありません。

がしかし、当初の私にはこの発言にどこか納得いかない所がありました。

その理由はこうです。愛するものとの別れは確かに苦しい。とはいえ、「愛からは喜びや楽しみ、そして幸せが生まれる」ことを否定することはできない。

それにも関わらず、愛するものとの別れが苦しいからと言って、愛から苦しみが生まれるからと言って、愛することをやめろとでも言うのか?

そんなふうに反発する自分の心の声があったように思います。そういう意味では、この話の中で子供を亡くした父親が怒る理由もわからなくはありません。

愛することは、自分にとってかけがえのないものができ、またそれを大切に思い、そこから喜びや幸せを感じることでもあります。

「愛から苦しみが生まれる」と認めてしまうと、それ自体が否定されてしまう。そう思い、「愛から苦しみが生まれる」ということが、どこか納得いかなかったのだと思います。

しかし後にこの話を読んでみると、私はあることに気が付きました。それは不思議なことにこの話のどこにも「愛することをやめよ」と指摘するような言葉がなかったことです。

もちろん原文にも見当たりません。

この話の中でお釈迦さんはただ「愛から苦しみが生まれる」という事実、愛別離苦があるという事実を述べているだけでした。別に愛することを否定しているわけではなかったのです。

それにも関わらず、私は反射的に「愛することをやめよ」という風に受け取っていました。私はこのことが不思議でたまりませんでした。

愛するものを持つことで喜びや楽しみなど、幸せが生まれるのが事実なら、愛する者を失うことで様々な苦しみ、不幸が生まれるのもまた事実です。

しかし私達の頭はこのように考えてしまいます。

「愛から幸せが生まれる。だから愛は必須なんだ。不幸が生まれるなんてとんでもない!」

もしくはその反対に、このように考えてしまいます。

「愛から苦しみが生まれる。だから愛はやめるべきなんだ。幸せは幻にすぎないよ!」

前者は後者を否定し、後者は前者を否定します。

愛から幸せが生まれるなら、不幸は生まれるはずない。

反対に愛から不幸が生まれるなら、幸せが生まれるはずない。

幸せと不幸、相反する二つ事柄が共に成り立つことはありえない。

そのどちらもが愛から生まれるのは事実なのに、頭の中では不思議なことに一方を認めると一方が成り立たない気がしてしまいます。

そして結局私達はどちらか一方の事実だけに囚われてしまいます。

「愛が必須」、「愛をやめよ」と言うことのどちらもが、自分が見えている事実しか、その範疇にありません。事実の一面にしか考えが至らない。

そういう意味ではたとえ反対の意見だとしても、その視野や考え方に大した違いはありません。

現実は、自分達が見ている一方の事実のみではありません。出会いがあれば、必ず別れがあるように、常に表裏一体です。

出会いだけの人生はありません。いつか必ず別れの時が来ます。

別れだけの人生はありません。別れたものには必ず出会いがあります。

幸せと出会うと私達は幸せですが、幸せと別れると私達は不幸です。

不幸と出会うと私達は不幸ですが、不幸と別れると私達は幸せです。

表が見える時は裏が見えません。裏が見える時は表が見えません。一方が照らされている時、一方は暗くなります。

しかしそれは見えないだけで、決して無いわけではありません。

お釈迦さんは子を失った苦しみで目の前を覆われた父親に、「愛から苦しみが生まれる」事実を伝えようとしました。

ひょっとしたらそうすることで、一方の事実に囚われず、愛する子との大切な時間があった事実にも目を向けさせたかったのかもしれません。

またお釈迦さんの言葉は、幸せに囲まれていた王様にも届きました。不思議なことに私達は幸せの中にいると、それが当たり前になって、ついつい蔑ろにしてしまうことがあります。

そんな時いつか必ず訪れる別れという苦しみの事実が、その大切さを再び思い出させてくれます。

目の前の事実だけでなく、見えない事実にも目を向けていく。どうやら仏教を理解するには、もっと多くの事実に目を開ける必要がありそうです。

2014年10月

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