「毒矢の喩え」として有名なお話。
哲学好きなマールンキヤさんとお釈迦さんが登場します。彼は、当時流行していた哲学的な問題について、よく質問していました。
お釈迦さんはその問いに対して、はっきりした答えを一切与えてくれません。
不満に思う彼とお釈迦さんとのやり取りを記したエピソードです。
エピソード(中阿含経巻第60-221「箭喩経」)
ある時、祇園精舎にて。
お釈迦さんの弟子であるマールンキヤさんは一人静かに座っていました。その時、彼は心の中でこう思いました。
「師匠はいつも僕の質問について答えてくれないなぁ。説こうともしないし、聞けば拒むし……。
世界は永遠なのか、はたまた、いつか無くなるのか。世界には果てがあるのか、はたまた、果てがないのか。魂と身体は一体なのか、はたまた、別なのか。人は死後も存在するのか、はたまた、しないのか。
こういう問題について何にも答えてくれない。正直不満だし、もう我慢できない。
……よし。もう一度師匠に聞いてみよう。もし師匠が何にも答えてくれなかったら、今度ばっかりはあきらめて弟子をやめてやる!」
そう決意した彼は、すぐにお釈迦さんの下に向かいました。
「師匠! 僕はもう我慢できません。あなたは僕の問いに、いつも答えてくれませんよね。
『世界は永遠なのか。それともいつか無くなるのか。』って聞いても、それについて何にも説いてくれない。『世界は果てがあるのか。それともないのか。』って聞いても、答えを拒む……。
もう耐えられません。僕は最後にもう一度、あなたに問います。それでも答えてくれないと言うのであれば、僕はあなたの弟子をやめて元の生活に帰るつもりです。
師匠……、もし知っているのならば、ちゃんと答えて下さい!」
その言葉を受けて、お釈迦さんは静かにこう言いました。
「マールンキヤ。私はあなたに『それについて答えをあげるから、私の下で学びなさい』と言いましたか?」
「いいえ、そうは言ってませんが……」
彼は言葉を失い、黙ってしまいました。お釈迦さんはこのままでは彼が納得しないと思ったのでしょう。続けてこう言いました。
「マールンキヤ。
仮にここに『世界は永遠である、もしくはいつか無くなる。この答えをくれない限り、私はあなたの下で学ばない!』と言う人がいたとします。
もしその時、私がその問いに答えなかったならば、その人は私の下で学ぶことなく、その真実を知ることもなく、いずれ命尽きるでしょう。
それはどういうことかというと、マールンキヤ。
仮にここに毒矢で射られた人がいたとします。近くにいた友人はその人を助けようと、大急ぎで医者を呼びました。しかし、駆け付けた医者に対して、その人はこう言いました。
『俺を撃った奴はどんな奴だ? 俺を撃った弓はどんな弓だ? 俺を傷つけた矢はどんな矢だ? 矢柄は? 矢じりは? 羽根は? それがわからないうちは、この矢を抜くな!』
もしその時、医者がその問いに答えなかったならば、その人は毒矢を抜くことなく、その真実を知ることもなく、いずれ命尽きるでしょう」
「なるほど……」
毒矢の喩えに合点(がてん)のいったマールンキヤ。お釈迦さんの言葉に耳を傾けます。
「マールンキヤ。『世界が永遠である』という答えがあれば、学ぶのかね? そうではなかろう。『世界は、いつか無くなる』という答えがあれば、学ぶのかね?
そうではなかろう。
仮に『世界は永遠』だと答えれば、その答えに囚われて、あなたは逆に悩んでしまうでしょう。また仮に『世界はいつか無くなる』と答えれば、その答えに囚われて、あなたは悩んでしまうでしょう。
私はあなたが生きる上で、悩みや苦しみを解決するために説いているのですから」
「ぁあ、そうか……」
お釈迦さんは、続けて説きました。
「いいかい。マールンキヤ。だから私が答えないものは、答えないものとして、そのまま受けとめなさい。また私が答えるものは、答えるものとして、そのまま受けとめなさい」
「はい!」
そして最後に、お釈迦さんはこう言いました。
「世界が永遠だの、無くなるのだの……。有限だの、無限だの……。魂と身体は一体だの、別だの……。人は死後存在するだの、しないだの……。
私は『そうだ!』とも、『そうでない!』とも答えません。それは何故か?
その答えは根拠によるものにならないからです。それは実に役に立たず、あなたのためになりません。だから私は答えないのです。
ではマールンキヤ。私は何を答えましたか?
私は苦しみについて説き、そしてその原因はなんであるのか、について説きました。苦しみの解決について語り、それにはどうすればいいのか、を語りました。
これらについて答えたのは、実に役に立って、あなたのためになるからです。
いいですか。マールンキヤ。だから私が答えないものは、答えないものとして、そのまま受けとめなさい。また私が答えるものは、答えるものとして、そのまま受けとめなさい」
「わかりました!」
マールンキヤさんは喜び、お釈迦さんの言葉を深く受けとめました。
メッセージ
この毒矢の喩えは、「無記(むき)」を示す話として有名です。無記とは「記していない」ということ。つまり、お釈迦さんが「答えなかった」または「説かなかった」という意味です。
私はそれを知るまで、仏教が死後の事や魂について、なんらかの形で答えているものだと思っていました。
私は大学生の頃、宗教学に興味を持ち、様々な宗教の死生観に興味を持っていました。
学者ではないので自分なりにですが、三大宗教と呼ばれる仏教・キリスト教・イスラム教の死生観を、歴史的に遡りながら調べていました。
だからこのエピソードはある意味で驚きでした。
古代インドの哲学者達の多くは、現代の科学者でもわからないようなことについて、議論を重ねていたそうです。例えば話の中で出てきた、このような問いです。
「世界は永遠なのか、はたまた、いつか無くなるのか。世界には果てがあるのか、はたまた、果てがないのか。魂と身体は一体なのか、はたまた、別なのか。人は死後も存在するのか、はたまた、しないのか?」
お釈迦さんはこのような問いに対しては、答えようとはしませんでした。
何故答えないのかというと、世界に果てがあろうと無かろうと、死後存在しようがしまいが、私達が今「どのように生きるか」を考える上で、役に立たない事だからです。
そんなことよりも、まずは毒矢を抜くこと。つまり不安や悩み・苦しみの解決が先決だという、お釈迦さんの立場が明確に示されています。
確かに仏教には哲学的なところもありますが、哲学と言っても、人が見たり聞いたり体感できないことや、自ら経験できないようなことは扱いません。
いくら頭の中で考えて結論を出そうとも、そこには根拠がないからです。仏教は、その結果と原因の関係がはっきりせず、根拠のないものは扱いません。
このような姿勢は、私が仏教により関心を抱くきっかけなった理由の一つです。
私自身は、「答えないということは、わからないことなんだ」「結論が出ず、わからないことは、わからないままにしておきなさい」と、受けとめました。
いくら頭の中で物事を考えても、わからないことはたくさんあります。またとりあえず、何か自分でやってみることで、わかってくることもたくさんあります。
根拠のない答えを出さないよう結論を急がず、やるべきことからまず行っていく。毒矢の喩えは、そのことを私に教えてくれました。
話に登場するマールンキヤさんにとって、また、様々な宗教の死生観に興味を持っていた私にとっても、お釈迦さんのいうところは、的確なアドバイスであったように思います。
この姿勢は今でも私の中で大切にしています。