兄弟でお釈迦さんの弟子となったマハーパンタカとチューラパンタカ。
兄のマハーパンタカは生まれつき頭が良く、非常に賢い人物でした。一方、弟のチューラパンタカは、兄とは違い、鈍臭くて、お世辞にも頭が良いとは言えません。
どれほど鈍臭いかというと、兄がお釈迦さんの教えをどんどん覚えていく一方で、チューラパンタカはたった数行の短い詩にまとめられた教えですら、覚えることができませんでした。
そんなある日、何一つ覚えていない弟を見兼ね、兄であるマハーパンタカがチューラパンタカを呼び出すところから、この話は始まります。
エピソード(増一阿含経巻第11-20-12)
「もうお前には無理だろう。何一つ覚えられないようでは……。いっその事あきらめて、袈裟を脱いで、元の生活に戻ったらどうだ?」
弟のチューラパンタカに対して、熱心に教え続けていた兄、マハーパンタカ。
しかし、この日はさすがに気力が尽きてしまったのか……。
兄はこのように告げ、弟を祇園精舎の門の外に追い出してしまいました。
兄から言い渡された突然の破門勧告。チューラパンタカは、思わずその場で泣き崩れてしまいました。
門外から聞こえる大きな泣き声に気づき、お釈迦さんが彼のもとへとやってきました。
「チューラパンタカではありませんか。どうしてこんな所で泣いているのです?」
「私はどうしようもない愚か者です……。
兄は一生懸命に考えて、あなたの教えをかみ砕いて、短い一句にまとめてくれました。それなのに、私は何か月かかっても、それすら覚えることができませんでした。
それで兄に、もう弟子をやめて家に帰れと、追い出されてしまったのです」
「チューラパンタカ……。なぜ兄に追い出されたその足で、わたしのもとへ来なかったのですか」
そう言って、お釈迦さんは彼の手を取り、門の中へ連れ帰りました。そして空いている部屋に彼を座らせると、お釈迦さんは一本のほうきを持ってきて、彼に渡しました。
「チューラパンタカ。これが何かわかりますか?」
「ほうき……でしょうか?」
「どういう字を書くか、わかりますか?」
「……」
黙り込むチューラパンタカに、お釈迦さんは応えました。
「『彗』と書きます。また、これで掃くことを彗掃(すいそう)と言います。あなたにはこれから、この祇園精舎の敷地を彗掃してもらいましょう」
「スイ……ですか?」
「そうです。彗掃です」
「……ソウ」
チューラパンタカは、『彗』の字がわかっても、『掃』の字を忘れてしまい、反対に『掃』の字がわかっても、『彗』を忘れてしまい、覚えることができませんでした。
「彗掃。まぁ、チューラパンタカ。とにかくやってみなさい」
そうして、翌日から毎日チューラパンタカは、祇園精舎の掃除を行いました。
「スイ……」
しかし、字は一向に覚えることができません。
「ソウ……」
掃除を行って数日後、あいかわらず『彗掃』とは覚えられないままでした。
しかし毎日毎日ほうきを使っている間に、チューラパンタカは、このほうきが塵を掃(はら)い、垢(よごれ)を除くものあることを自ずと理解していました。
それから、しばらくしたある日、彼はこのように思いました。
「掃き除くとはどういうことだろう……。掃き除く垢(よごれ)とは何だろう……」
またそれから、しばらくしたある日、彼はこのように思いました。
「私が掃いているのは、土や埃、塵などの垢(よごれ)。除くというのは綺麗にすること」
またそれから、しばらくしたある日、彼はこのように思いました。
「お師匠様はなぜ、この彗(ほうき)を使って私に教えたのだろうか?」
またそれから、しばらくしたある日、彼はこのように思いました。
「私自身にもまた垢(よごれ)があるのだろうか。それなら……、垢(よごれ)とは一体何だろう。どうやって除けばいいのだろう……」
またそれから、しばらくしたある日。
毎日毎日、掃除の時は肌身離さず使っていたお釈迦さんから渡された彗。その彗を目にして、彼はこのように思いました。
「そうか……。心の彗でもって、私の垢(よごれ)を掃き除けばいいのか……。これが智慧ということか。わかった。わかったぞ!
なんだ……。私はちゃんとお師匠様の教えを理解しているじゃないか!」
そしてチューラパンタカは、お釈迦さんのもとへ駆けていきました。
「お師匠様! わかりました。『彗で掃く』ということが」
「そうですか……。チューラパンタカ。聞かせてください」
「それが智慧だったですね。心の彗でもって、私自身も垢を掃き除けばいいのですね」
「そうです。その通りです。それでは、掃き除く垢とは何でしょう?」
「それは、私を縛り、硬く結びつけているもの……。私はずっと自分はどうしようもない愚か者だと思っていました。
鈍臭くて、頭も良くない。だからほんの短い詩ですら覚えることができませんでした。だから、お師匠様の教えなんて、到底理解できないことだと思っていました。
でも、私はちゃんとお師匠様の教えを理解することできた。『彗掃』という字を覚えることができなくとも、私はちゃんとお師匠様が教えてくださった『彗で掃く』ということを理解することができました。
自分はいつまでたっても変わらない。そんな思い込みで私は自らを固く結び、縛り付けていたんですね」
「ああ、良かった……」
そして最後にチューラパンタカは、このような詩を詠みました。
「今溢れてきたこの言葉。師の説いたことのように。智慧は私の結び目を解く。彗で垢を除くように」
それを聞いてお釈迦さんは、最後に言いました。
「あなたの言う通りです。智慧を以てして……。彗を覚えるだけでは何にもならない。使ってこその彗なのですから」
メッセージ
ほうきというと、一般的に「箒」という字を用いると思います。しかし、この漢字は象形文字なので、箒、帚、彗、篲と複数の書き方があります。
今回、用いた「彗」という字は、彗星(すいせい)という言葉で現在よく使われます。
彗星の別名は箒(ほうき)星(ぼし)。昔の人が彗星を見て、ほうきを連想した様子が浮かぶようで、改めて漢字の奥深さに感心しました。
奥深さと言えば、今回の話から垣間見える、「智慧」の意味に込められた「彗」の意味もまた、私には非常に印象的です。
一般的に「ちえ」という字は、「知恵」と書くと思いますが、しかし、仏教では「智慧」という漢字を用います。
実は「智慧」という言葉には、「知恵」には無い意味が込められているのですが、その意味と今回の話が見事に繋がっていました。
一般的に用いる「知恵」は、今回の話でいう「彗」に当たります。
お釈迦さんの教えも、知識も言葉も何もかも、伝えられたものは「知恵」として伝わります。頭で理解する。それが「知恵」です。
しかし、「智慧」は頭で理解するだけでなく、身になることの意味が含まれます。
チューラパンタカがお釈迦さんから手渡された彗。彗そのものは、ただの道具にすぎません。
彗は得たからといって、そのまま持っているだけでは、実際何の役にも立ちません。掃除という実践を通して、使うからこそ、彗は彗としての役割を全うすることができます。
そうやって、知恵は実践を通して活かすからこそ、はじめて知恵として役立つ。
仏教の理解というのは、決して知識を詰め込むだけでなく、このような実践を通して得る理解も欠かすことができません。
言ってみれば、知恵という実を、実際に食べる。消化され、自ずと身になっていく。「智慧」という言葉には、このような大きな意味合いが込められています。
私達は誰かに何かを伝える時、自らの“内”から湧き出た想いを、言葉や態度、あるいは物や作品など、何らかの形にして、“外”へと表現します。
何らかの姿や形に表された“外面”、心や頭に湧き起こる“内面”。
お釈迦さんは彗という“形”に表現し、それを受け取ったチューラパンタカは、少しずつ少しずつ、“心”へと落とし込めていきました。
“彗”と“心”。それが通じて「慧」になる。私は漢字という言葉から、翻訳者のそんな内なるメッセージを感じずにはいられません。
さて、ここで「……翻訳者?」と疑問符がつく方がいらっしゃると思います。
いや、それ以前に、お釈迦さんは、約2500年前の古代インドの時代を生きた方です。そして当時、もちろんインドに漢字はありません。
ですので、「お釈迦さんが漢字を使うわけないだろう」と、はじめから疑問に思っていた方もいらっしゃったかと思います。
今回の話が載っている経典も、パーリ語やサンスクリット語と呼ばれるインドの言語から中国の言語、漢字へと翻訳されました。
実を言うと、話の内容は、パーリ訳と漢訳のものとでは異なっている部分があります。しかも、それは話の根幹に関わる部分、「彗」の部分なのです。
お釈迦さんからチューラパンタカに手渡されたもの。漢訳では「彗」になっていますが、パーリ訳では「白い布」となっています。
「なんだ? 白い布では全く智慧の話につながらないじゃないか……」と思う人がいるかもしれません。
しかし、例え言葉は違っていても、白い布であれ、彗であれ、私は通じるものを感じました。
私が初めてパーリ訳、つまり白い布バージョンの話を知ったのは、仲間のお坊さんの法話からでした。
白い布を手渡されたチューラパンタカは、お釈迦さんからこのように言われます。
「この布で、私のもとへ訪れる人達の衣のほこり、足や履物の泥を払いなさい」
チューラパンタカは、お釈迦さんの言う通りに、人々の服の埃や足の泥の汚れを除きました。そしてチューラパンタカは気づきます。
手渡された時は真っ白だった布が、黒くなっていることに。
初めは綺麗だった布が、ボロボロに汚れていることに。
そして、足を拭き、衣の埃を払った人達が、「ありがとう」と喜んでくれることにも。
そうしてチューラパンタカは、お釈迦さんの教えを自ずと理解していきます。
むしろ、白い布バージョンの話は、彗バージョンの話の理解をより深めてくれるように思いました。
例えば、白い布が使われることによって、どんどん黒く汚れ、すり減っていく。その様子から「無常」という事が浮かび上がってきます。
それは彗を用いる掃除にも言えることです。
掃除することよって綺麗に保つことができます。しかし当然のことながら、毎日毎日、葉は落ち、埃はたまり、汚れていく。少しさぼったら、綺麗な状態を保つことはできません。
他にも、布で衣の埃を払い、靴や足を拭いた時、皆「ありがとう」笑顔になってくれる。自分の修行、“自利”(自分の為)にしていたことが、他の人の笑顔にも繋がり、“利他”(他者の為)にもなっている。
そんな様子から、仏教の実践がどういうものであるかという事が浮かび上がってくるように思います。そしてそれは、掃除も同様に言えることだと思います。
無常や自利利他といったことは、私達は“頭”を使い、教えとして知識面から学ぶことができます。
しかし、お釈迦さんの伝えたいことは、知識面からだけでなく、私達が“身体”を使う実践や行動からも自ずと浮かび上がってくるもの。
白い布の話からも私はそのようなことを感じました。
“身体”と“頭”を通して培っていくもの。
“彗”と“心”が通じて現れてくるもの。
そうして通じる所に「智慧」は自ずと現れる。
だからこそ、「智慧」はどこにでも通じている。
「智慧」は、無常という教えとして自ずと現れ、いつまでも自分は愚かなままで変わらないと思い込んでいたチューラパンタカの頭を、硬く結び縛り付けていた心を、解きほぐしていきました。
またそうして、チューラパンタカが、お釈迦さんの教えを解することができたのは、「智慧」がどこにでも通じているから。
愚かと言われようが、兄のマハーパンタカのように賢いと言われようが、関係が無い。「智慧」が“愚”と“賢”に通じるから。
そうして白い布と彗の話は通じているのかもしれません。
“彗”と“心”が通じる。
“外”と“内”が通じる。
“他”と“自”が通じる。
“知識”と“実践”が通じる。
“頭”と“体”が通じる。
“愚”と“賢”が通じる。
そうして通じる所に「智慧」が現れるからこそ、「智慧」はどこにでも通じているのではないでしょうか。