第17話「筏の如く」

今回登場するのは弟子のアリッタさんです。

彼はふとしたきっかけで、お釈迦さんの教え(法)を誤解してしまいました。

それを仲間の弟子達にも注意されるのですが、彼は頑として「お釈迦さんはこう言っていた!」と主張します。

それを耳にしたお釈迦さんがアリッタさんに対してどう説いたのか?

仏教ならではのエピソードをご紹介します。

エピソード(中阿含経巻第54ー200「阿梨咜経」)

ある時、祇園精舎にて。
お釈迦さんの弟子の一人であるアリッタさんが、集まった人々に向かって話をしていました。

「ある日、お釈迦さんはこう説法していましたよ。『欲のままに行動しても、それは何の障礙しょうがいにもならない』って。わたしもそう理解しています」

その内容をたまたま近くで聞いていた仲間の弟子達は、訝(いぶか)しげな表情を浮かべ、互いに目を合わせました。

「お釈迦さんは、そんな風には言ってないよな……?」

「お釈迦さんは、むしろ『欲は障礙しょうがいになる』と言っていたと思うが……」

そこで彼らはアリッタさんに注意しました。

しかし、アリッタさんは、

「うるさいな!お釈迦さんがそう言っているんだよ!」

と耳を貸さず、自らの主張を変えませんでした。

困った仲間の弟子達は、お釈迦さんに相談することにしました。彼らから事情を聴いたお釈迦さんは、アリッタさんを呼び、直接話すことにしました。

「アリッタ。『欲のままに行動しても何の障礙しょうがいにもならない』と説いているそうですが……?」

「はい、私はそう言っています」

「他の仲間の弟子達が『そうではないよ』と言っても、あなたは頑なに、私がそうやって法を説いていると言い張るそうですね?」

「ええ、間違いありません」

「私はかつてこう説いたことがあります。

『欲は、楽が少なく、苦が多い。悩みも多く、危難も多い。欲はまるで骨のようだ。肉のようだ。炬火たいまつのようだ。火坑のようだ。毒蛇のようだ。夢のようだ。借り物のようだ。木の実のようだ』と。

このことをしっかり把握すると、『欲のままに行動しても何の障礙しょうがいにもならない』とは決して言えません。

自分の誤った理解によって、あなたは仲間を非難してしまいました。それはあなたにとって苦しみとなり、いては自分をも傷つけることになりますよ」

そう言われたアリッタさんは、顔を真っ赤にして、肩を落とし、すっかり意気消沈してしまいました。

そんな彼を見てお釈迦さんは、ひとつ法を説くことにしました。

「アリッタ。それから周りにいる皆さん。今からいかだに喩えられる法を説くことにします。しかしこれは、渡るためであって、捕らえるわけではありません。よく聞いて、よく考えて下さい」

周りにいた弟子達は、近くに集まりました。アリッタさんも皆と同じように、顔を上げ、お釈迦さんの話を聞きました。

「例えば、皆さん。ここに一人の旅人がいて、道を歩いているとしましょう。彼は大きな川のほとりに辿り着きました。そこから彼は川沿いを歩こうと考えました。

しかし、川のこちら側はあからさまに危険な道です。一方、川の向こう側は、見るからに歩きやすそうです。

『よし!向こう岸に渡ろう!』と思った彼ですが、川の流れは思った以上に急で、あたりを見回しても、橋はおろか、渡し船もありません。

しばらく考えた彼は、川岸に生えている草木を使い、筏を作って渡ることにしました。そして無事向こう岸に辿り着いたのです」

弟子達はほっとして息を漏らしました。お釈迦さんは更に話を続けました。

「そして、無事に川を渡った彼は、思いました。

『この筏はなかなか役に立つな。ここに残していくのは惜しいくらいだ。よし!せっかくだから、この筏は肩に担いで、どこまでも大切に持っていくことにしよう!』

さて皆さん。これを聞いてどう思いますか?

果たして、彼はそうすることで良かったのでしょうか?」

弟子たちは一斉に答えました。

「そんなことありません!」

お釈迦さんはそれを聞いて頷きました。

「では、どうすれば良かったのでしょうか?

確かに筏は役に立ちました。彼にとって非常に有益なものだったのです」

「師匠!筏は置いていくべきです!」

その声を聞いたお釈迦さんは、ふとアリッタさんに目をやりました。彼も頷いている様子を見て、お釈迦さんは微笑みました。

「そうですね。どんなに有益な筏であろうとも、その筏は水に浮かべるか、川岸に引き上げるか、いずれにせよ、捨て去るのがいいですね。

このように、私は筏に喩えられる法を説きます。しかしそれは、渡るためであって、捕らえるわけではありません。

このような法を理解したならば、あなたたちは、たとえ私の説いた法であろうとも、捨てるべき時には、捨て去るべきです。

ましてや、非法ならば尚更の事」

メッセージ

「私が説いたおしえであろうとも捨てなさい」なんていう宗教があろうとは、思いもしなかった。そう思った人もいるのではないでしょうか?

私も初めてこの話を知った時、率直にそう思いました。

「宗教の中で教えは絶対」と思っていた私にとっては、お釈迦さんのこの言葉は意外も意外でした。

「このような話が出てくる仏教は、宗教と言えるのだろうか?」

「でも仏教は、世界三大宗教の一つとも言われているし……」

そんな考えを巡らすうちに、「そもそも『宗教』って具体的に何を指すのだろうか?」そんな疑問が湧いてきました。

調べてみると、意外なことに、「宗教」という言葉の意味は、学者、書物によって、定義がバラバラです。統一された見解は全くありません。

使う側の人間によって、それこそ全く意味が異なります。

「宗教の中で教えは絶対」という考えは、勝手な先入観でした。

私はこの時初めて、普段使っている言葉をあまり深く考えずに、ただ漠然と使っていたことに気づかされました。

禅の言葉の中に「不立文字ふりゅうもんじ」という言葉があります。これは「言葉や文字に捕らわれてはいけない」という教えです。

だからといって禅では、言葉や文字を使わないかというと、そうではありません。

むしろ、禅の書物を見ると、言葉や文字を巧みに使い、より慎重に、より大切に扱っていることがわかります。

言葉は、決して自分の考えを100%表したものではありません。自分の内側で起こった考えを表現しようとする時、言葉にできないことや、言葉にすると何か違う気がすることがあるはずです。

また受け手の解釈で、大きくその意図が変わってしまうことがあります。

そして、うまく伝わらないことや誤解を生むことがあります。だからこそ、言葉や文字を使う側も受け取る側も注意が必要です。

語り手は言葉に、たくさんの意味が込めることができます。それこそ辞書に載っていない意味すら、その場の状況に応じて、込めることができます。

受け手はそれを踏まえ、一つ一つその言葉を吟味しなければ、実際にその人が何を伝えたいのか、その真意を汲み取ることができません。

だからこそ禅仏教では、言葉はとても重要で、それ故に特定の言葉に重視しないのです。

お釈迦さんは、私達が法に捕らわれるために、法を説いているわけじゃありません。

一体何を伝えたくて法を説いているのか、それを吟味するきっかけを与えてくれるエピソードかと思います。

2014年7月

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