仏教エピソード㉞「子供を亡くした母親キサーゴータミー」

物事が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、物事が興りまた消え失せることわりを見て一日生きることのほうがすぐれている。

法句経113

仏教の話は難しいと私自身も思うことがあります。しかし、そんな時は、簡単な教えに戻り、考え直すようにしています。

そんな私にとって、仏教の中で一番理解しやすい教えと言えば、「無常=あらゆるものは変化している」という教えです。なぜなら、それは当たり前の事だからです。

上記の「物事が興りまた消え失せることわり」というのは、言い換えれば、「無常」という教えなのだと私は解釈しています。(無常については、第26話、第31話など取り上げています。また伊丹禅教室の法話でも取り上げました)

その無常の教えを説く仏教の話の中に、キサーゴータミーの話があります。私自身、最初この話を聞いた時は印象的でした。

キサーゴータミーは、約2500年前、お釈迦さんの弟子になった女性です。つまり尼僧(女性僧侶)さんですね。

テーリーガーターと呼ばれるお経には彼女自身の詩偈があり、そこには彼女自身の半生も少しばかり描かれています。

テーリーガータ―によれば、彼女は、貧しい家の生まれでした。ちなみに、キサーゴータミーの「キサー」とはパーリ語で「痩せた」という意味です。そんな貧しい暮らしの中で、親、兄弟、一族、皆亡くなってしまいました。

結婚して夫との間に子供を設けましたが、妊娠中にその夫も亡くなってしまっています。更にはその子供も幼くして亡くなってしまったとのことです。

そんな境遇の彼女がお釈迦さんの弟子になった経緯はどんなものかといえば、このような話が伝わっています。

 

幼子を亡くしたキサーゴータミーは、悲しみに打ちひしがれていました。自分にとっての唯一の肉親。大切に大切に育てていた我が子。

「どうして私だけこんな目に合わなければならないのか!?」

嘆き悲しむ彼女は、現実を受け止められませんでした。

そして彼女は、村中を訪ね歩きました。「どうかこの子を生き返らせる薬を下さい」と、幼子の躯を抱きながら……。

彼女の境遇を知る者にとっては、彼女の行動は理解できなくはありません。

しかし、幼子の躯を抱きながら「生き返る薬をください」と、突然訪ねてきた彼女を見て、村人はどう思ったでしょうか?

真剣に彼女に取り合ってくれる人はほとんどいなかったことでしょう。中には親切な人もいたでしょうが、生き返らせる薬なんて土台無理な話です。

そうして幼子の躯を抱きながら彼女は、各地を彷徨い続けました。

そんな中、ある家を訪ねると「私はあなたの望む薬は持っていないけど、きっとお釈迦さんならあなたに薬を与えてくれる」と言われました。

そうして彼女はお釈迦さんと出会いました。

彼女はお釈迦さんに「この子を生き返らせる薬をください」と訴えました。

お釈迦さんは「わかりました。その薬を作るには芥子の実が必要です」と言いました。

更に付け加えてお釈迦さんは言いました。「ただし、その芥子の実は今まで死者が出たことのない家からもらってくる必要があります」と。

そこで彼女は家々を訪ねました。「芥子の実を分けてくれませんか?」と。

芥子の実ぐらいであれば、香辛料としても使われるため、どこの家にもある代物です。 「いいですよ」と言ってくれる家はたくさんありました。

しかし、彼女は問います。「今までこの家から死者はでてないですか?」と。

すると家の人は応えます。「実はこの間おばあちゃんが……」と。

そこで次のお宅へ向かい、また同じように尋ねました。「今までこの家から死者はでてないですか?」

「実は何年か前に祖父が……」

「実は何年か前に夫か……」

「この子が生まれてすぐに妻が……」

「何番目の子供が事故で……」

「数十年前には父方の母が……」

「そういえば父方の母の姉が私の生まれる前に……」

そんなこと言えば、両親、祖父母、そのまた前……、死者の出ていない家なんてあるはずありません。 彼女は、各家を訪ね歩くうちに気がつきました。

「死は誰にでもやってくる。自分だけが特別不幸に見舞われたわけじゃない。誰もがそのような苦しみを背負っていたんだ……」

そして、彼女は抱いていた子供の躯を弔い、自分自身の人生を再び歩み始めました。当たり前のことに気づかせてくれた、お釈迦さんの弟子として。

このキサーゴータミーの話は、法句譬喩経(ほっくひゆきょう)と呼ばれるお経に載っています。法句譬喩経というのは、簡単に言えば、冒頭のような法句経の偈(詩)を取り上げて、その偈(詩)が用いられた経緯などが描かれています。

キサーゴータミーの話は「不死の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている」という法句経114の偈に関連して出てくるお話です。つまり、上記の法句経113の次の偈です。

ただ同じような形式の句がいくつも並んでいるので、私としては前後するとはいえ、関連があるように思えてなりません。無常という当たり前のことに気づいたキサーゴータミーの話と……。

このキサーゴータミーの話には学ぶべきところがたくさんありますが、その中で特に私が感銘を受けたことが、当たり前のことに気づく事で彼女が救われたことです。

「死は誰にでもやってくる。自分だけが特別不幸に見舞われたわけじゃない。誰もがそのような苦しみを背負っていたんだ……」

その気づきにより、子供の躯を抱き彷徨い続けた彼女は、自分を見つめるきっかけを得ました。そして、その迷いから立ち直りました。

ただキサーゴータミーの気づきが特別なことかと言えば、落ち着いて考えてみれば当たり前のことです。そしてその気づきの根本には、無常があります。

あらゆるものが変化し続けるからこそ、今生きているという状態もいつか変化する。即ち、死という事実があるわけです。

ただそれだけを聞くと、無常は自分達にとって残酷なだけにも聞こえますが、そうではありません。

なぜなら、無常だからこそ、苦しみも永遠ではないことを教えてくれています。キサーゴータミーの話は苦しみも解決できることも、示唆してくれています。

そして、それは当たり前のことに気づく、無常を観る所に私はヒントがあると感じます。

物事が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、物事が興りまた消え失せることわりを見て一日生きることのほうがすぐれている。

当たり前に気づく。当たり前の所に戻る。そのことが大事なんだという所でこれらの話は繋がってくるのではないでしょうか。

2018年2月

補足

とは詩と同じ意味。しかし詩偈しげや偈とある場合は、そこには仏教の教えが述べられていることを意味します。
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