エピソード(雑阿含経巻第27-726「善知識経」)
お釈迦さんがサッカラという村にいた時のことです。弟子のアーナンダさんがお釈迦さんにこのように言いました。
「師よ。仏法を学び、そして共に仏の道を歩む。このような善き友がいるということは、修行の既に半ばを達成できたに等しいと私は思うのですが、いかがでしょうか?」
それを聞いてお釈迦さんはこのように応えました。
「そうではありません。そんなことをいうものじゃありませんよ。アーナンダ」
さすがに、修行の道はそんな簡単なものではないか……とアーナンダさん頭に一瞬よぎりました。
しかし続けざまにお釈迦さんこのように言いました。
「善き友がいることは修行の半ばではなく、その全てなのですよ」
予想外の答えに唖然としたアーナンダさんにお釈迦さんは更に続けてこう言いました。
「アーナンダ。それはこのことからもわかるでしょう? 皆が私を善き友とすることによって、仏の教えを学び、 そして共に仏の道を歩んでいるということからも。
ですから善き友を持ち、善き仲間がいるということは、修行の全てであると知りなさい」
アーナンダさん、そして周りで話を聞いていた弟子達も、このお釈迦さんの言葉に感銘を受け、喜びました。
メッセージ
「仏」と呼ばれ、皆を導く立場にあるお釈迦さん。そしてお釈迦さんの下に集まった仏弟子と呼ばれる「僧」達。
元々「仏」とは仏陀(ブッダ)という古代インドの言葉です。その意味は目覚めた人。そして当時そのように呼ばれていたのがお釈迦さんです。
近年までお釈迦さんが実在していたかどうかもわかりませんでしたが、19世紀末の考古学的発見により、歴史上実在した人物だったことがわかっています。
そしてお釈迦さんという人物を中心にして集まった修行者達はサンガと呼ばれました。
サンガとは集団や集会を表します。
サンガが漢字に音訳され「僧伽(そうぎゃ)」、または単に「僧」と言われるようになりました。現在仏門に入った人のことを「僧」と呼ぶのはここから来ています。
私は仏教エピソードを書くにあたって、一応お釈迦さんを師匠、そして僧達を弟子として書いています。
それは単純にそうした方がわかりやすいと思ったからです。しかし最初は、正直どうしたものかと思いました。
別に師と弟子に訳することが間違いというわけではありません。
ただ言葉の意味や解釈、そしてなにより今回のエピソードのことを考えると少しばかりそぐわないとも思っています。
もちろん、導き手・学び手という師弟関係はあるとは思いますが、このエピソードには単なる師弟関係とは言いきれないことが表れていると思うのです。
お釈迦さんにとって彼ら僧達は善き友であり、そしてその存在は修行の全てであると言いきれる程のものでした。
修行の半ばではなくその全てである。それは言い換えれば、悟りと言えるかもしれません。
「善知識」という言葉が仏教にあります。
そのまま読めば善い知識。一般的に言えば知識は単に知っている「事柄」を意味します。
しかし仏教で善知識は正しい道理を教え導いてくれる「人」を指します。禅宗では参禅の人が指導者に対して善知識と呼ぶこともあります。
そしてその善知識という言葉の成り立ちを追っていくと、お釈迦さんのいう「善き友(カルヤナ-ミトラ)」に辿り着きます。
カルヤナは善い、美しいという意味。ミトラは友人、真の友人という意味となります。
なぜ善知識と言う言葉が「事柄」ではなく、「人」を指す言葉として使うのか。
それは善い知識は言葉や文字などで表された単なる「事柄」というわけではなく、本当に善い知識というのは「人」そのものにあることを示しているのではないか……。
今回の話や善知識の語源も含め考えると私はそのように読み解きました。
また、そのように考えると、これが「善」だの、これが「悪」だのと、善悪は単なる事柄として、そう簡単に分かるものではないような気がするのです。
いずれにせよお釈迦さんと僧達を師弟という間柄だけで表現するのは、私自身言葉が足りないと思っています。
仏教エピソードでは以後も、ひとまずお釈迦さんを師匠、僧達を弟子と統一します。
しかし是非とも、お釈迦さんが僧達に対してどのような気持ちで接していたかを、このエピソードから感じ取って頂きたいのです。
お釈迦さんにとって修行の全てと言いきれる善き友人、善き仲間である僧達は、掛け替えのない存在だったのでしょう。
またそれは私達にとっても同じく、善知識が掛け替えのない存在であることを伝えてくれています。
私自身そのことを言葉や物語の中で知ったわけではなく、人と接する中で培ってきたものだと、今改めて感じます。