お釈迦さんに対して怒るなんて、誰も考えたがことないかもしれません。しかし、お釈迦さんも時には、怒りの矛先を向けられることはありました。
「怒り」をテーマにした今回のエピソード。
お釈迦さんの所に、アコーサカさん、そして、ヴィーラギーカさんが、それぞれ訪ねてきます。
エピソード(雑阿含経巻42ー1153,1154「健罵経」)
お釈迦さんがラージャグリハの竹林精舎で、坐禅をしていた時のこと。
坐禅から立ち上がったお釈迦さんは、ゆっくりと歩く経行(きんひん)を行っていました。
その時、アコーサカという人物が、お釈迦さんの所を訪れてきました。
彼は、お釈迦さんの姿を見るや否や、悪態をつき始め、ゆっくりと歩んでいるお釈迦さんの後をつけながら、責め立ててきました。
しかし、お釈迦さんは、ただ押し黙り、ゆっくりと歩いています。
経行(きんひん)が終わり、お釈迦さんが座へと戻る頃には、
「何も言い返せないのならば、俺の勝ちだな。俺はあんたを説き伏せたぞ!」
と、彼は騒いでいました。
その時、お釈迦さんは詩をもって、このように説きました。
「勝てる者は更に怨みの念を増し、
敗れる者は悔しさで夜も眠れない。
勝敗の二辺を捨て、是れ安眠を得る」
その言葉に、虚を突かれたアコーサカさん。騒ぐのをやめ、自らの過ちを悔い、反省しました。そして、お釈迦さんの説法を聞き、喜んで帰っていきました。
また、お釈迦さんがラージャグリハの町で、家々を廻って、施しの食事を受ける托鉢(たくはつ)をしていた時のこと。
その時、ヴィーラギーカという人物が、突然、罵声を浴びせながら、近づいてきました。
そして、我を失ったように怒り狂う彼は、何を思ったのか、地面の砂をつかみ、お釈迦さんに投げつけてきたのです。
しかし、その砂は向かい風に煽られ、逆に自らの身に降りかかってきました。
唖然とする彼……。
そこで、お釈迦さんは詩をもって、このように説きました。
「怒り無き人に怒りをぶつけ、過ち無き人に悪態をつく。その悪、かえって自らを汚す。風に逆らい、土を投げ、かえって己を汚すように」
その言葉に我に返ったヴィーラギーカさんは、自らの過ちを悔い、反省しました。そして、お釈迦さんの説法を聞き、喜んで帰っていきました。
メッセージ
怒ったっていいことない。自分自身の過去を振り返ってみても、怒りに任せた時ほど、ロクな結果になりません。
怒りのままに相手に文句をいうと、一見、スッキリしそうな気がしますが、実際の所、そうでもありません。
むしろ、お釈迦さんの言うように、余計に腹立たしくなった自分がいます。「なんでわからへんねん!?」と、愚痴ったり、憎んだりと、まさに、怨の念が膨らんできます。
また、反対に、怒った時に反論される、なんてことがあります。
その時、まったく自分の言葉がうまく出てこず、うまく言い返せない時は、悔しさが滲みでてきます。
それこそ本当に、夜眠る時に、ふと頭の中に思い浮かぶと、悔しさで夜も眠れない思いです。
怒りのままに、勝ち負けの世界に持ちこんでしまうと、白と黒のどちらがつこうとも、余計腹立たしい。
その状態は、よく考えれば、自分の心は苦しんでいることがよく解ります。
それこそ、土を投げて、風に煽られて、自らが汚れるように、怒った分だけ、実は自分の心には、苦しさが伴います。
「怒りに燃える」と、怒りは火に例えられることがありますが、怒りが大きく燃え上がった時ほど、自分も火傷してしまいます。
むしろじっと我慢して、怒らなかった時の方が、後で振り返ってみると、自分の心は苦しくなかったことに気が付きます。
しかし、怒らない方がいいと、頭では分かっていてもなかなか、私達の心は都合よくはいきません。
訳もわからず、後ろから急に叩かれたら、誰でもイラっとするでしょう。
それは、摩擦で熱や火花がおこるように、思いがけずに起こることもあるので、完全に止めることは不可能だと思います。
例えば、私達が火をおこす時に使うマッチは、摩擦によって発火します。摩擦は、物体と物体が触れ合う時、必ず起こる力です。
物と物が接する時には、必ずこの摩擦が起こります。
摩擦が起こると熱を持ち、また、擦れ合う時に火花がおこります。
それと同じく、人の心や関係においても、自分と他者の間で、摩擦が生じます。
私達は生きている限り、いろんな人や物、出来事に接します。人も物も接する時には、必ず摩擦が起こります。
世の中、自分の都合通りには動いてくれません。人間関係においても、人も物も触れ合う中で、摩擦が生じ、時には、火花が飛び散ることはあると思います。
ここでいう摩擦の熱や火花が、苛立ちと呼ばれるものです。この火花や熱は、完全に防ぎようはありません。苛立ちも、その発生は完全には防ぎようがありません。
しかし、摩擦は何も悪いことだけを起こすわけではありません。私達がコップを掴むことができるのも、摩擦の力なくしては掴めません。
時にはお互いをくっつける力にもなりうるからです。
それと同じく、人の間でも、お互いをくっつける力にもなりうるはずです。
私にも兄弟がいます。もちろんケンカもしました。でもそこから、相手のことを考えたり、時には妥協したり、時には励ましたり、コミュニケーションを学んできたのも事実です。
いろんな人と摩擦がおこしながら、そこから思いやりや気遣いも、励ますことや、責任を持つことも、覚えていくのだと思います。
生まれてからこの方、誰にも迷惑をかけたこと無い人なんていません。迷惑をかけながら、摩擦をおこしながら、迷惑をかけないことを覚えていきます。
さて、ここで振り返って、自分の怒りの出火原因を考えると、大抵の事はどれも、小さな火花から生まれています。
ほとんどの事は、どれも小さなすれ違いから起きていないでしょうか?
しかし、その火花が自分自身に燃え移り、そして大きな怒りの炎になっていく。私はこの大きくなった炎が、仏教では「瞋恚」と呼ばれる煩悩だと思うのです。
ですから、怒りの炎と言えど、根本から無くせるわけではありません。
摩擦から自然に生まれる熱や火花は止めようがありません。
問題なのは、自分自身についた火を最小限に食い止めるか、または、自分が燃えないように努めることなのだと思います。
自分が燃えやすい材質になっているのであれば、炎は瞬く間に大きくなってしまいます。しかし、日頃から注意して、自らを燃えにくくすることもできるはずです。
生きている木はなかなか燃えませんが、枯れた木はすぐ燃えます。心も枯れ木のように、カラッカラになればすぐに燃えてしまいますが、心も豊かに潤っていれば、なかなか燃えにくいはずです。
そして心の潤いを与えてくれるのも、また人や物などの触れ合いからだと私は思います。