愚者が自ら愚であると考えればすなわち賢者である。
愚者でありながら、しかも自ら賢者だと思う者こそ愚者だと言われる。
~法句経63~
皆さんはこの言葉をどのように受け止めるでしょうか?
ここには愚癡の煩悩に対するヒントが隠されています。
愚癡(おろかさ)という仏教の言葉がありますが、貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)と並び、仏教の三大煩悩の一つとされています。
今では「愚痴をこぼす」のように、言っても仕方のないことを嘆くことの意味で使われるようになりましたが、愚癡は本来、愚かでものの道理を知らないという意味です。
愚も癡も漢字の意味としては同じ意味ですが、私達が思いつく「愚」は、無知であるとか、馬鹿だとか、劣っているだとか、そのような意味合いが浮かんでくるかと思います。
しかしそれは仏教の〈愚〉のニュアンスと大きな違いがあります。
以前このことに関する話を仲間のお坊さんとしていたら、非常にわかりやすい話を教えてもらいました。それは「ジャータカ」というお経に書かれているエピソードです。
皆さんはキンスカの木をご存じでしょうか?
おそらく見たこともないでしょう。お話に出てくる四人の長者の息子達も、キンスカの木を今まで一度も見たことがありませんでした。
この四兄弟はいつもキンスカの木を話題にしては、「見たい!見たい!」と思っていました。そこで四兄弟は父親に仕えている執事の爺やに相談してみました。
爺やは快く承諾してくれましたが、大切なご子息達に遠い道のりを歩くかせるわけにはいきません。そこで爺やは父親が日頃使っている車を使うことにしました。
車といっても現代使っている自動車ではなく、人力車のようなものです。その車には爺やともう一人しか乗れません。
爺やは父親が車を使わない日に、息子達を一人ずつキンスカの木のもとへ連れていくと約束をしました。
そしてある日のこと。まず爺やは長男をキンスカの木のある森へと連れ行きました。
爺やが見せてくれたキンスカの木は、ちょうど芽がふいている頃でした。長男の目には、それはまるでろうそくの炎のように見えました。
またしばらくしたある日。次に爺やは次男をキンスカの木のある森へと連れて行きました。
爺やが見せてくれたキンスカの木は、ちょうど若葉が生い茂っている頃でした。次男の目には、なんとも生命力あふれるさわやかな木に見えました。
またしばらくしたある日。次に爺やは三男をキンスカの木のある森へと連れていきました。
爺やが見せてくれたキンスカの木は、ちょうど花が咲いている頃でした。三男の目には、なんだか真っ赤な手のようなものがぶらさがっているように見えました。
またしばらくしたある日。最後に爺やは四男をキンスカの木のある森へと連れていきました。
爺やが見せてくれたキンスカの木は、ちょうど実がなっている頃でした。四男の目には、大きな福耳みたいな枝豆が実っているように見えました。
それからまたしばらくして四兄弟が集まった時、キンスカの木が話題となりました。
長男は幻想的な炎のような芽を思い出し、得意げに話し出しました。
「いやぁ、キンスカの木ってとても幻想的で、綺麗な木だよねぇ。まるで炎が燃えているようなさぁ」
すると次男がすかさず、こう言いました。
「何言ってんの!? 幻想的というか、エネルギッシュでこっちも元気になるような木だったでしょうよ!」
すると今度は三男が不服そうな顔をして、こう言いました。
「はぁ? 違うだろ! あんな気味の悪いもの。赤い手みたいでさ。俺は今までみたことがないね!」
すると今度は、四男がこう言いました。
「確かに気味が悪かったが、あれは耳だね。でも立派な福耳にも見えたよ!」
「違う!違う」
「そっちこそ違う!」
四人共、互いに譲りません。最終的には言い争いの喧嘩になってしまいました。
ちょうどその時、父親が帰ってきました。
四兄弟の言い争う様子を見つけた父親は、息子達に詳しく事情を聞きました。
喧嘩の理由知った父親は、今から全員でキンスカの木を見に行こうと提案しました。
そこで四兄弟は父親と一緒にキンスカの木のもとへ向かいました。キンスカの木へ連れてこられた四兄弟は皆びっくりしました。
そこは確かに以前、爺やに連れてこられた場所でした。しかし自分達の目に映るキンスカの木は、自分たちが見たもの、話したもの、そのどれとも違っていたからです。
目の前にあるキンスカの木は、葉がほとんど落ち、枝しかありませんでした。
不思議がる息子たちの様子見て父親は言いました。
「お前たちは確かにキンスカの木を見た。みんなそれぞれが正しい。間違っていない。
しかしな、同じものでも時期や角度や人によって、見え方も感じ方も違ってくる。だから決して、自分だけが正しい。他は間違っていると決めつけてはいけないよ」
このキンスカの木の話は、同じものと言えど、それぞれ違う見え方があることを気づかせてくれます。
同じキンスカの木と言えど、四兄弟のように時期によって、これだけ見え方や感じ方は異なります。
同じものでも上から見る印象と下から見る印象、横から見る印象は異なります。
その人の感性によっても注目するところが違えば、感じ方も違うでしょう。
しかし、そのようにそれぞれ違う見え方や感じ方があると言えど、それらはまた紛れもなく真実の姿です。
芽吹いたキンスカの木、実のなったキンスカの木、枯れたキンスカの木、どれも紛れもなくキンスカの木の真実の姿です。
そう考えると、私達が普段見たり感じたりすることが、その物事のほんの一部分であることを同時に教えてくれています。私達は一度に物事全体を見通すことはできません。
このように私達の視点には必ず見えないところがあります。私達の目には、一度に完璧に世界を見通すような能力はありません。
そういった不完全さを示す意味合いが仏教の〈愚〉には含まれています。私達は失敗もすれば、間違えることもある。
〈愚〉とはそういった人間なら誰しもが持っている不完全なところを指します。
さて、〈愚〉の本当の意味を理解したうえで、もう一度お釈迦さんの言葉を読むと受け止め方も変わってくるのではないでしょうか?
〈愚者〉が自ら〈愚〉であると考えれば、すなわち賢者である。〈愚者〉でありながら、しかも自ら賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
愚癡という煩悩も決して無くそうとするものでありません。
まず自分自身が失敗することもあれば、見えないことも知らないこともあるのだと自覚する。〈愚〉は必ず誰にでも備わっている。
その自覚こそが、愚癡の解決への糸口となるのではないでしょうか?