エピソード雑阿含経巻第5-103
ヴァッサ国の首都コーサンビー。ここにはゴーシタ園という場所があり、多くお釈迦さんの弟子達がいました。
ある時、そのゴーシタ園にいた弟子の一人であるケーマさんが病気を患ってしまいました。重い病気だった為、ケーマさんはしばらく療養することになりました。
また病状が安定しないケーマさんの為に、同じく弟子のダーサカさんが看病を担当することになりました。
看病に通っているダーサカさんには、他の弟子達からケーマさんの様子を尋ねる声が集まりました。
「ケーマさんの身体の具合はどう?」
「少しは楽になったのかい?」
「辛くはない?」
「具合悪くなったりしてません?」
「私達のこと、ケーマさんによろしく伝えておいてください」
ケーマさんの看病に行く際、ダーサカさんは他の弟子達皆からの言葉を伝えました。
「皆がよろしくって言っていましたよ。『病気は少しはよくなりましたか』『苦しいことはありませんか』って」
ケーマさんは応えます。
「そうですか。ありがとうございます。でも、残念ながら病気の具合はあんまり変わりないですね。
容体も安定しているわけではないし、どちらかというと、痛みは増してきているし……。正直に言えば、相当苦しい。
例えるなら、屈強な男達が、私の頭を縄で締め付けるいるかのような頭痛がするし、腹痛は内蔵をえぐり取られるかのような痛みがあります。足も焼けるように熱い。
とてもじゃないですが、容体が落ち着いたとは言えないですね」
ダーサカさんは、直接看病をして、ケーマさんが苦痛に歪む顔も知っています。ケーマさんの言葉が、冗談でも何でもなく、いやそれ以上の苦痛に耐えていることをダーサカさんは知っていたのでしょう。
看病を終えたダーサカさんは、皆の所へと戻り、ケーマさんの病状を伝えました。
すると、それを聞いた弟子達がこのような話をしました。
「そうですか。彼の病気はそんなに……。かわいそうに」
「本当に辛そうですね。まぁでも、彼の病気とは言うけれど、病気は誰の身にでも起り得るし、明日は我が身かもしれないですよ」
「そうですね。自分事でもあるのですよね」
「そういえば以前、師匠が “わたし”について説かれたことがありましたね」
「自己を見つめる。自己を観察する。そのお話ですか?」
「え~っと。自己を分析して、自分の身体と自分の心についての話をしていましたよね」
「そうですね。そこで、『自己はわたしではない、わたしの所有物でない』とおっしゃっていましたよね」
「『自己はわたしではない』か。確かに私もその話を聞きましたが、どういうことなのでしょう?」
「『自己はわたしではない』ってことは、自分の身体や心以外に、本当の我がいるってことに、私には聞こえるんですけど?」
「ああ、それは違うんじゃないですかね。師匠は、そういう我ではないってことは日頃から説いていますよ」
「例えば、自己には、自己を自己たらしめる核があって、それを本当の我と考える。そういう我ではないってことですね」
「はい。付け加えると、我という核があると考えると、その核が本体で、後は付属品と考えます。付属品は壊れたり劣化したりしても、取り換えればいいけれど、その本体は取り換えようがない。それが変わってしまったら、別物になってしまう」
「ああ、だから、その本体にあたる我は壊れちゃいけないし、変わっちゃいけないのか。つまり、ずっと変わらない我。そういう話になるわけですね」
「不変の我がいる、私を自己たらしめる絶対的な我がいる、本当の我がいる。その手の話が、今の時代(古代インド時代)、世の中の常識ですものね」
「ついでにその我は自己の中にあるのか、外にあるのかみたいな話にも発展するわけですね」
「まぁ、今の時代(古代インド時代)の話はさておき、いずれにせよ、師匠は、無常、あらゆるものは変化していると説いています」
「だから本当の我、不変の我、そういう『我ではない』ってことですね」
「そもそも『この自己はわたしではない・・・・・・、わたしの所有物でない』とおっしゃっているわけですからね」
「じゃぁ『この自己はわたしではない・・・・・・、わたしの所有物でない』ってどういうことなんですか? 私にはわかりません」
「私、自分、自己、我、自我……。私達は漠然とわたしと言っていますが、わたしって何か……」
「そうですね。自己を見つめる。やはり、そこから考えるしかないんじゃないですか?」
「自己分析してみると、目があったり、耳があったりと、まず自分の身体。そして、こうして考えたり、思いついたり、気持ちが湧き上がったりする自分の心。この話につながるわけですね」
「じゃぁまず、自分の身体に注目してみましょうか。わたしって何でしょう?」
「え~っと……。例えば、ここにわたしがいますよね。自分の身体がここにあります」
「うん。ありますね」
「なら、この身体はわたしでしょう!」
「いやいや、ちょっと待って。確かにそうですけど……。ならば、心はどうなるんですか。身体がわたしなら、心が違っても、わたしなのですか?」
「いや、それは……、わたしとは言えないね。なら心がわたしなのか……?」
「それでも同じ理屈で、心がわたしとして、仮に、他人の身体に心が入り込んだとしても、それをわたしと呼べるでしょうか……。」
「そもそも、身体と心を入れ替えることなんてできるのですか……。そんな妄想の産物、とても、わたしとは言えないでしょう」
「身体と心は物理的に切り離せなくても、身体は物理的に切り落とせますよ。実際にやろうとは思いませんが……」
「仮にやってみたとしてもですよ。そこに、はっきりと『これがわたしだ』と言えるものがありますか?」
「例えば、自分の腕を切り落として、その腕は、わたしなのかと問われる。わたしの腕だった(?)ものだから、そこに腕にはもう、わたしはいない……のかな?」
「うーん。そうやって、切り落としていって最後に残ったのが……わたし?」
「それってさ。半分に切ったらどうなるんですか。例えばムカデとかミミズとか、半分に切っても両方動いていますけど、その場合、どっちがわたし?」
「いや、そもそも、半分に切って動いている人間なんていないでしょ。というか、それ、そもそもどっちが、わたしといえるのですか?」
「わたしとは言えませんね……。あっ、ならばどっちもわたしでは?」
「では、話を戻しますけど、自分の腕を切り落としたら、その腕はわたしなのですか? 足を切り落としたら、その足はわたしなのですか? そもそも、わたしってどこにいるんですか?」
「……」
「心! 心はどうですか?」
「そうですね。心をバラバラにってのは想像しにくいですが、例えば、心にも、何かを感じ受け取る心があって、楽しいな、苦しいなって感じる心があって、これがしたい、あれがしたいという心があります」
「他にも、行動に移す。歩く時は歩く時の、走る時は走る時の、つかむ時、放す時、それぞれ、動作する意志、心がありますね」
「意識して動くこともあれば、無意識で動くこともありますね」
「あとは、今みたいに、言葉にしたり、考えたり、思いついたりする。そういったような心もありますね」
「後は言葉にしてしまえば、喜びとか、怒りとか、悲しみとか、楽しみとか……。言ってみればきりがないですね」
「きりがないですが、そういった心をバラバラにしていったとしてですね。わたしはどこにいるんですか?」
「うーん。身体と同じ理屈かぁ……」
「あっ、でも、私達は考えて言葉にしますよね。例えば、自己紹介の時、自分の名前を言いますよね。『あなたは何者だ?』と問われれば『わたしは○○です』ってはっきりと言えますよね」
「例えば、わたしはダーサカです。ならば、ダーサカがわたしなのですか? ダーサカは名前です。わたしはただの名前ですか? 名前はわたしですか?」
「……」
「ちょっと見方を変えましょうか。怒りや悲しみ、不安や恐怖など、こういった自分の心に起きることに自分達はふりまされることがあるわけじゃないですか。悩みや迷いもこうして生まれてくるわけですよね。こういうのを煩悩っていうじゃないですか」
「そういえば、私達、今、悩んでますね。でもこうして考えて悩むの、私は嫌いじゃないですよ。確かに大変(苦しい)ですけど、楽しいです」
「でも、楽しいとは思えないものだってありますよね。私達それぞれ、迷いや苦しみを何とかしたくて、師匠に弟子入りしたわけですよね?」
「心って、楽しいとか、苦しいとか、その他色々、本当にいろんな色に変化しますよね」
「変化しますね。でも私が言いたいのはそこではなくて、迷いや苦しみを何とかしたいのです。さっきまでの話だと、苦しいって自分の心に生じますよね?」
「 自分が自己と認識する自我が、自分を迷わせ、悩ませる。そう言いたいのですか?」
「えーっと……、つまりは、自我が迷い苦しみ、煩悩ってこと?」
「自我が煩悩ならば、自我を無くせば、煩悩も無くなる。自我を無くせば、悩みや迷いも無くなる」
「で、自我を無くす事が修行の完成ってことになると?」
「きっとそうですよ!」
「でも、自我って無くせますか? だって自己はあるじゃないですか。自分の身体も自分の心もこうしてあるじゃないですか。わたしはいるじゃないですか」
「でも、今まで話してきましたけど、『これがわたし』と間違いなく明確に言えるものってありませんでしたよ。結局の所、本来『わたしなんていない』って事なんじゃないんですか?」
「ここで師匠が言っているのは『この自己はわたしではない・・・・・・』ですよ。『わたしはない』とか、『自分が無い』とか、『自我を無くせ』とか、そんな事は言ってないですよ」
「そうですね。今までの話からだと、『わたしって何』と言わずにはいられないです。でも、『わたしなんて無い』とは断言できません」
多くの弟子達がお釈迦さんの言葉について考える中、一人の弟子がこのように言いました。
「ケーマさんにも、聞いてみましょう。師匠のおっしゃる通りかどうか、少しでも感じる所があるかどうか。どのように見ているのでしょうか」
「ダーサカさん。今度ケーマさんに聞いておいてください」
ダーサカさんは、彼らの教え(?)を受け、次に、ケーマさんの看病の際に、皆の話を伝えました。
「ケーマさん。皆があなたに聞きたいことがあると言っていたのですが。師匠が語っていた”わたし”について、ケーマさんの意見を聞きたいのだそうです。
ケーマさんは、自己において、例えば自分の身体、自分の心において、『わたしではない』『わたしの所有物でない』と少しでも感じますか? 」
ケーマさんは応えます。
「私は、師匠のおっしゃる通り、自分の身体や心、自己において『わたしではない』『わたしの所有物でない』と観察します」
そして、皆の所へと戻ったダーサカさんは、皆にケーマさんの言葉を伝えました。
「『自己において、わたしではない、わたしの所有物でないと観察します』とケーマさんは言ってました」
すると、何人かの弟子達がこのような話をしました。
「おお。ケーマさんは『この自己において、わたしではない、わたしの所有物でない』と観察できるのですね」
「じゃぁ、それってさ。 悩み、迷い、苦しみなど、煩悩が尽き果てたということですか? 煩悩である自我をも尽き果て、修行の完成者になったということですか?」
「ダーサカさん。今度、是非、ケーマさんに聞いておいてください」
次に看病に訪れた際、ダーサカさんはケーマさんに伝えました。
「ケーマさん。以前『自己は、わたしではない、わたしの所有物でないと観察します』とお話していたじゃないですか。その事で聞いてほしいことがあると言われまして……。
そのように自己を感じると、煩悩が尽き果て、自我が無くなる。修行を完成した者となるのですか?」
ケーマさんは応えます。
「私は『自己は、わたしではない、わたしの所有物でない』と感じましたけど、煩悩が尽き果てたわけでもなく、自我を無くしたわけでもありませんよ。修行完成者なんてことはありませんよ」
ダーサカさんは、皆の所に戻って、言いました。
「サーマさんは『自己は、わたしではない、わたしの所有物でないと感じつつも、煩悩や自我を無くした修行完成者ではない』と言ってました」
すると、何人かの弟子達が言いました。
「ぇえ~っ。ちょっと、ダーサカさん。また、ケーマさんの所に戻って、言ってやってください。前後が矛盾して、間違っているって」
「矛盾しているって何が?」
「『自己は、わたしではない』のなら、わたしはいないはずだと私は思います。 なら、自我を無くして、煩悩を無くした修行完成者になっていないと、矛盾しちゃうでしょう!?」
「ああ。以前話していた『自我が煩悩ならば、自我を無くせば、煩悩も無くなる。自我を無くせば、悩みや迷いも無くなる』『自我を無くす事が修行の完成』ってやつか」
「『自己は、わたしではない』=『本来、わたしはいない』=『煩悩である自我が無くなる』=『修行完成者』じゃないと矛盾するってことですね」
「ダーサカさん。 早速さっそく、聞いて来てください!」
そう言われて、ダーサカさんは、看病とは関係なく、ケーマさんの所へ行くこととなってしまいました。
「あの~ぉ、ケーマさん」
「おや、ダーサカさん。どうしたのですか?」
「ちょっと、皆から頼まれまして……」
「また、皆から聞きたいことがあると?」
「はい。ご病気なのに申し訳ありませんが、どうかお願いします」
未だ病状が思わしくないケーマさん。辛そうに起き上がりつつも、ダーサカさんの言葉に耳を傾けます。
「ケーマさん。あのですね。以前あなたが言っていたことが、前後が矛盾して、間違っているって言われちゃいまして」
「前後が矛盾ですか?」
「はい。『自己は、わたしではない、わたしの所有物でないと感じつつも、煩悩や自我を無くした修行完成者ではない』というのは、前後が矛盾して、間違っているって」
「えーと。私はね。この病気になって思うんです。自分が蝕まれている。自分の命が脅かされている。そんな現状が、嫌でもここにあります。
誤解しないでほしいのですが、別に同情してほしいわけではないのですよ。
でも、いつもいつも襲ってくる苦痛。まるで最初からそこにいたかのように、あたりまえのように私を侵す苦しみ。『どうして私がこんな目に合うのか』なんてことも考えてしまいます。
一人で考えていると悪い方悪い方に考えてしまって。そんな自分にふと気がついて、自分に振り回される自我にうんざりして。自己嫌悪ってのはこういうことですよね。
どうしようもないんですけどね。でも、どうしようもないほどに、自分が自己に叫んでくるんです。
私にとってこの病気は、そんな自分とも向き合うということなんですよ。
そうとでも思わなければ、私は、自己を見ていられなくなる。自分を見失う。自分から逃げてしまう。そうしてきっと自分の苦しみに飲み込まれてしまうでしょう。
例えば、『私は死にたくない。死にたくない!』と、叫ぶ私がいます。自分の生にしがみつこうとします。自分にしがみく、そんな自我が確かにいます。
当然ですが、病気は人を選びません。どんなに自分にしがみつこうが、多くの人が病いの為に死んでいます。
それでも『私は大丈夫だ、私だけは大丈夫なんだ!』と思わずにはいられません。
自分にしがみつくことは、我執という事でもありますね。『私だけは大丈夫だ』なんて傲慢だと言われても、反論できません。
エゴですよ。自我。『我が傲慢』だから、我慢と言ったりもしますね。
そういえば、私は同時にこうも思います。『私は助かりたい。この病気を治したい』と、心から欲しています。
これも、我の欲望でしょう。だから、我欲とも言いますね。
さっきから私、自分、自我って、わたしとばかり言ってますけど、皆、自己からわき出してきます。
そんな自分に振り回されていることもありますね。煩わしい、悩ましいと思う。それは煩悩っていいますよね。
こういうことを、私達は、我使と言うことがありますね。
本当に色々な自分がいる。色々な自分がある。私は、これまで、このような自分がいるとは、知らなかった。
こんな自分なんていらない。そう思ってしまう自分もいるけれど、でもね。どの自分の自己もなんですよね。
もし、それらの自分がいなければ、その自分が欠けてしまったら、自己は自己たり得ません。
少なくとも、そう感じる自分がいます」
わかったようでわからないような顔をしているダーサカさんを見て、ケーマさんは言います。
「あなたも、自分にとって、他人事ではないのですよ。あなたがこうして看病に来てくれるおかげで、私は命を何とか持ちこたえさせています。
自分の命は、あなたによって支えられています。あなた無しには、今の自分はありません。あなたがいたから、自分の命が、今ここに、こうしてあります。
この命は、自分のものであって、自分のものではないのです。
自己は他己ではないし、他己は自己ではない。でも、他己なしに自己はいない。そう、自己には他己がいるのですよ。
私が、さっき言った、我慢や我欲や我使、自我を断ち切ったわけでもなく、自己を離れたり、自分を追い出したりしたわけではありません。私は未だにわたしを知らないのです。
『自己において、わたしではない、わたしの所有物でないと観察します』とは、そういうことですよ」
わかったようでわからないながらも、なんだか胸に温かいものを感じるダーサカさん。彼はケーマさんとの話を伝えるべく、皆の所へと戻りました。
「ケーマさんからのお話を聞いてきました。え~っと……『自己において、わたしではない、わたしの所有物でないと観察します』というのはですね。え~、なんていうか、その~……」
「ケーマさんはなんて言っていたんですか?」
「え~っと『我慢や我欲や我使、自我を断ち切ったわけでもなく、自己を離れたり、自分を追い出したりしたわけではなく、私は未だにわたしを知らない』ということなんですけど……」
すると、何人かの弟子達が言いました。
「我慢や我欲や我使というのは、普段私達がよく使っている言葉ですね」
「そうですね。我執、つまり自分に執着してしまうあまりに、自分を高く見て他を軽視する。我が慢心すると書いて我慢」
「我欲は読んで字のごとく、我の欲望。そして、そんな自分の煩悩に振り回されることを我使と言いますが……」
「我ばっかりですね……。そして断ち切ったわけでもなく、未だ知らず、離れたり、追い出したわけでもないと。」
「煩悩を無くした、自我を無くしたっていうわけじゃないんですか? むしろ、我ありってどういう事なんですか!? ダーサカさん」
「えーーーっと、あれ? いや、確かにそう言っていたんですけど、そう言いたいんじゃなくて……」
「いやいや。あなたが『我あり』というのは、どこにあるのですか? わたしがあるというのはどこにあるのですか?」
「いやいや、ダーサカさんに言っても仕方がないじゃない」
「ならば、ケーマさんに聞いてください。あなたがわたしがあるというのはどこにあるのですか。身体がわたしだというのですか、わたしは身体とは異なるというのですか。心がわたしだというのですか。わたしが心とは異なるというのですか?」
そのように、言いながら、何人かの弟子達は、ダーサカさんをケーマさんの所へと行かせました。
ダーサカさんから、質問を伝えられたケーマさんは応えます。
「私は、身体がわたしだとか、わたしは身体ではないとか、心はわたしだとか、わたしは心ではないとか、そんなことを言っているんじゃありませんよ」
「はい。しかも『我慢や我欲や我使、自我を断ち切ったわけでもなく、自己を離れたり、自分を追い出したりしたわけではなく、私は未だにわたしを知らない』と私も伝えようとしたのですが……」
「う~ん。なんて煩わしい……。しかも、どれだけ、あなたを駆け回させるつもりなんでしょう。ダーサカさん。杖を取って来てくれませんか?」
「はい?」
「私自みずから、行きます。杖にしがみついてでも行きます」
「っえ? 大丈夫ですか? 無理はなさらないほうが……」
「お願いです。杖を持って来て下さい」
強く願うケーマさんに押され、ダーサカさんは杖を持ってきました。
ケーマさんは、杖に寄りかかりながら、皆の所へ行きました。
一方、まさかケーマさんが直接くるとは思っていない皆は、あちらのほうから、ダーサカさんと共に、何とか杖に寄りかかりながらやってくる人物を目にし、慌てて席を設けました。
座っても辛くないように、腰かけを用意し、何人かはケーマさんの所へいって身体を支え、手伝いました。
席に座らせ、久しぶりの再開に、お互いを労ねぎらいます。そして本題へと入りました。何人かの弟子達が、ケーマさんに問いかけました。
「ケーマさん。あなたがいう我慢とは……。一体どこに、わたしというものを見るのでしょうか?」
「あなたがわたしがあるというのはどこにあるのですか?」
「身体がわたしがだというのですか、わたしは身体とは異なるというのですか。心がわたしだというのですか。わたしがは心とは異なるというのですか?」
ケーマさんは応えます。
「身体がわたしだとか、わたしは身体ではないとか、心はわたしだとか、わたしは心ではないとか。そうではありません。
『我慢や我欲や我使、自我を断ち切ったわけでもなく、自己を離れたり、自分を追い出したりしたわけではなく、私は未だにわたしを知らない』っいう事はですね。
う~~~ん。あなた方には何といえばいいのでしょうね……。ダーサカさんにはああやって言えましたが……。
例えば、蓮の花があるでしょう。その花の香りのようなものですよ」
「?」「?」「?」
「根っこが香りですか?」
「いいえ。根っこは香りではありません」
「では、香りは根っことは異なりますか?」
「香りは根っこではないですよね……?」
「いーや。そうとも言えないのではないですか。だって、根っこなしに、香りは生まれませんからね」
「根っこは香りではないけれでも、根っこがあるから、香りがある。何故に香りはあるのか。その理由を探ると、根っこにもつながるというわけか」
「そうですね。根っこがあって、はじめて、花の香りがありますから、完全に『香りは根っこと異なるもの、違うもの』とは言い切れないということですね」
「香りは根っこではないというわけでもない、ということですね」
「では、莖が香りでしょうか?」
「いいえ、莖は香りではありません」
「では、香りは莖とは異なりますか?」
「これも、確かに茎は香りではないけれど、莖なしに香りは生まれない」
「香りは茎ではないというわけでもない、ってことになるね」
「では、葉は香りでしょうか? 香りは葉とは異なりますか?」
「いいえ。葉は香りではないし、香りは葉ではないわけでもありません」
「では、蕊は香りでしょうか? 香りは蕊とは異なりますか?」
「ちょっと待って。蕊って何?」
「おしべとか、めしべのことですよ。おしべで花粉をつくって、めしべで花粉を受け取る。受粉するから次の世代、つまり種が生まれるってわけです」
「そういえば、花の香りってその蕊から出るんじゃないんですか? 蜜を吸った虫が花粉つけて受粉するんですから」
「そういう花もあるそうですね。でも多くの花の場合は、花びらが香るものが多いそうですよ。他にも部位ごとに違う香りを出しているものもあるそうです」
「それなら、花にもよるけど、香りはその蕊だったり、花びらだったりってことじゃないの?」
「蕊が香りそのものというわけではありませんよね。 もちろん、香りは蕊から出てくるものもあるそうなので、蕊なしには香りは生まれませんが」
「つまり、蕊は香りというわけではない。そして、香りは蕊ではないというわけでもない」
「では、先ほどの話に出た、花びらは香りでしょうか? 香りは花びらとは異なりますか?」
「いいえ、花びらは香りというわけではありません。香りは花びらではないというわけではありません」
「じゃぁ、これは何の香りですか?」
「これは、花の香りでしょう」
「『わたし』もそういうことですよ」
「わたしも花の香りと同じような事。そういうことか……」
「『身体はわたしというわけではない。わたしは身体ではないわけではない。心はわたしというわけではない。わたしは心ではないというわけではない』
そうではあるけれども『自己において、わたしではない、わたしの所有物でないと見ます』
しかも『我慢や我欲や我使、自我を断ち切ったわけでもなく、自己を離れたり、自分を追い出したりしたわけではなく、私は未だにわたしを知らない』
もし伝わらないのであれば、この例え話で、どうか理解をしてください。
それ以外、言いようがありません。
衣服をどんなに洗って汚れを落とそうとも、臭いは残ります。その臭いも、様々な香料をつけることでやっと臭わなくなります。
『自己は、わたしではない、わたしの所有物でない』と感じても、自己において『我慢や我欲や我使、自我を断ち切ったわけでもなく、自己を離れたり、自分を追い出したりしたわけではなく、私は未だにわたしを知らない』
しかも、自己において、よく考えて、もっともっと考えて、生じたり滅したり、変わりゆく事を観察します。
これは身体です。
身体は何からできていますか。何が集まって、身体となっていますか。何がどうなって、その身体が生じますか。
この身体は変わりゆきます。何がどうなって、今の身体がありますか。何がどうなって今の身体ではなくなっていきますか。
これは心です。
心は何からできていますか。何が集まって、心となっていますか。何がどうなって、その心が生じますか。
この心は変わりゆきます。何がどうなって、今の心がありますか。何がどうなって今の心ではなくなっていきますか。
自己において、生じたり滅したり、このように変わりゆく事を観察したならば、我慢や我欲や我使、ではなくなっていくでしょう」
ケーマさんがこの話をした時、皆は、それぞれ、何か気づくことがあったことでしょう。
ケーマさんも、皆が自分の話を大事に思い、大事と思う皆の心に触れて、少しずつ病気が良くなっていきました。
時に、これは余談ですが、後になって、何人かの弟子達がケーマさんにこう言ったそうです。
「私達、あなたに色々聞いたことで、伝わるものがあったし、本当に楽しかったです。
でも、これだけは何度でも言いたいのですが……。
何故あれほど質問をしたかというと、あなたの巧みな言葉使い、事細かな所まで行き届く何とも言えない素晴らしい話を聞きたかったからです。
決してあなたを困らせようとしたわけではないのですよ。
何度も言いますが、本当に、広く仏法を説くに足る人物だと思っていたからですよ」
それを聞いて、ケーマさんもダーサカさんも、そして皆も、笑っていたそうです。
メッセージ
他者の答えはわたしの答えにはならない
非我や無我について描くのは難しい。過去にもそれを題材にした仏教エピソードをご紹介しましたが、メッセージの部分ではどうも説明的になってしまいました。
掲載しているものは、これでもダラダラと長くなってしまった説明部分を大部分を削ったものです。
それほど、非我や無我、我、自己など、『わたし』をテーマにしたものは、簡単には表現できないし、端的にまとめてしまうと、全く違うものになってしまいます。
そこで今回は、お釈迦さんの弟子達に、私自らの葛藤を詰め込んでみました。
最近の翻訳では以下の通りに翻訳しています。
そこで、今回の補足部分は、私自らの『わたし』に関する葛藤を、弟子達の会話として、書かせて頂きました。
その理由は、『わたし』についての答えではなく、『わたし』について次々と湧き上がってくる問いや疑問を描けると思ったからです。
自己を見つめる。これは仏教において欠かせないことです。仏教を語る上で、『わたし』は、避けては通れないものです。
しかし「この『わたし』とは何か?」という問いが出てくると、どうしてもまず、その答えを知りたがってしまいます。
しかし、その答えを仏教に求めても、その答えはありません。返ってくる応えがないわけではありません。でも、そこに答えはありません。
わたしについていくら他者に聞いてまわっても、他者にいくら答えを聞いてまわっても、その答えは、他者の答えであって、自分の答えではありません。
だから、自己について、文字にすればするほど、説明すればするほど、わたしは見えなくなってしまう気がしてしまいます。
自分の答えでないのであれば、それはわたしとは言えない。その答えはわたしにはなりません。
その人だからこそ伝わるものがある。伝えられるものがある。
それでは、それを伝えることはできないのでしょうか?
その答えは、NOです。それを伝えようとしているのが、また仏教でもあるからです。
今回のケーマさんも同様に、一生懸命伝えようとしていました。伝えるのは難しい。だけど伝わらないわけではないと私は考えます。
例えば、ダーサカさんと他の弟子達。彼らは同じ弟子同士ですが、ダーサカさんはケーマさんの看病をしていました。
他の弟子達には、ただの言葉に聞こえることが、ダーサカさんにはただの言葉には聞こえない。そこに何かしら他に伝わるものがある。
人と人が何かを伝える時、伝えた事と伝わった事は必ずしも一致しません。
時にはその言葉の裏側に、色んな想いがあることがあります。
きっとケーマさんには、看病しているダーサカさんだからこそ話せたことがあったはずです。
ダーサカさんだからこそ伝わったものがあって、ケーマさんとダーサカさんだったからこそ、通じたものがあったはずです。
そこでどんなやりとりがあったのか。私にはわかりません。
残念ながら経典には文字しか書かれていません。その経典の文字も、如是我聞(私はこのように聞いた)です。
そこから見えるのは、全体のたった一面です。ごくごく一部です。
しかし、その言葉の向こう側には、時代背景や思想や人生など、何と言えばいいのでしょうか。もっと現実として、いろいろな角度があります。
そこでどんなやりとりがあったかどうか、私にはわかりません。文字を頼りに、少しは垣間見えるその様子から、想像することしかできません。
しかし、それでも、何かしら、伝わることがきっとあるはずです。