水、もし常になければ、その井戸が一体何になろうか?
欲、もし全く無ければ、一体何をどうしろというのだ?
~クッダカ・ニカーヤ「 ウダーナヴァルガ」~
経典の中に記されているお釈迦さんのこの言葉。お釈迦さんの「欲望」に対する考え方がよく表れています。この言葉が語られた背景には、このようなことがありました。
お釈迦さんが生きていた時代というのは、今から約2500年前の古代インドです。雨季でない時、お釈迦さんや弟子たちは各々、「遊行」といって、修行や教化のために、各地を巡り歩いていました。
ある日、とある村の近くで休むことにしたお釈迦さん。のどが渇いたので、同行していた弟子に、近くの村の井戸まで水を汲んでくるように頼みました。
弟子は村の井戸へと向かいますが、なんと、向かった先の井戸は、村人の手によって投げ込まれた草などで一杯になっていました。
当時、インドの人々の誰もが、お釈迦さんを尊敬していたわけではありません。中には「エセ坊主!」などと非難する人もいました。
その日、お釈迦さん達が訪れた村は、そんな人々が住まう村だったのです。
事情を知った弟子は、水を汲むこともできず、お釈迦さん達のいる所へ戻りました。そして、お釈迦さんに事情を説明しました。
そこで、お釈迦さんはあきらめるのかと思いきや、後でもう一度、水に汲みに行くよう弟子に頼んだのです。おそらく、そう言われた弟子は、納得いかなかったでしょうね。
しかし、お釈迦さんの言われた通り、後で井戸に行ってみました。すると、井戸はきれいな水で一杯になっていました。弟子は喜んで水を汲み、お釈迦さん達のところへ戻りました。
そして、その水を持って帰ってきた弟子に対して言ったのが、「水、もし常になければ、その井戸が一体何になろうか? 欲、もし全く無ければ、一体何をどうしろというのだ?」という言葉なのです。
どんなに上から草を入れたところで、井戸からは地下水が湧き出でています。ですから、時間が経てば、草も徐々に沈み、表面から水がにじみ出て、水が汲めるようになることも、お釈迦さんは予想していたのでしょう。
どんなに井戸にフタをしようとも、湧いてくるものは湧いてきます。人の欲望もどんなに抑えようとも、湧いてくるものは仕方がありません。
むしろ、水は井戸にとって無くてはならないものです。水があってこそ、井戸は井戸なのです。
「欲望もそんな水のようなものなんだよ」と、井戸から次々と湧き出る水の様子と、人間の持つ欲望を重ねています。
欲望は人が生きる限り、コンコンと湧き出てくるのです。お腹が空いたら、食欲という欲望は生まれます。欲がなければ、私達は生きていけません。
欲望は、人間が生きるためにも欠かせない要素なのです。
では、欲望が無くならないのであれば、欲望のままに随っていればいいのか……と言えば、そういうわけでもありません。それこそが、仏教でいう煩悩の「貪欲」が、本来示すところです。
三大煩悩のうちの一つ「貪欲」は、「貪るほどの欲望」と読めるように、厳密には、好むものに対する強い執着や激しい欲望など、行き過ぎた欲望を「貪欲」と読んでいます。
人には水が必要不可欠です。全くなければ死んでしまいます。かといって、多すぎる水は、人を溺れさせ、苦しませます。
お腹がすくからと、食欲の思うままに任せ、食べ過ぎれば、病気や肥満などで、結果、自らを苦しめることになってしまいます。
過ぎた欲望は、自らの身を滅ぼすことにもなります。多すぎても、少なすぎてもいけないのです。まさに欲望は水のようなものです。
まるで、私達が水に浮かぶ船のように、船を沈ませるのも水であれば、船を浮かしているのもまた水。欲望は、人を殺すものともなれば、人を生かすものともなるわけです。
ところで船と言えば、「バラスト水」というのをご存知でしょうか。
バラスト水は、船、特に貨物船で使われる船の中に入れる水のことです。
普通、船内に水を入れてしまったら、船が沈んでしまうように思ってしまいますが、この水は、重石代わりに、船内に取り込む水のことを言います。
船は重心があがると、波や風に対して不安定になり、転覆しやすくなってしまいます。また、推進力が低下したり、舵が効きにくくなることもあるそうです。
そこで、船内のタンクに海水を取り込み、重石の代わりにして、船を安定させるのです。
水が使いようによって、船を活かすものにもなるように、欲望も使いようによって、人を活かすものになると私は思うのです。
仏教を学びたいという意欲や誰かを助けたいという気持ちも、欲望の一つには違いありません。
欲望の力とどのように付き合い、どのように方向付けするのか。
これが、水と欲の例えから、私が感じたことです。