第42話「勝友」

さて、以前、モッガラーナさんの神通力についての記事を書きました。

そこでは、私自身は、神通力は特殊能力というわけではなく、心理描写、表現手法の一つとして捉えていることを述べました。

今回は、それと関連した話となります。

親友サーリプッタさんに語る神通力

モッガラーナさんの神通力は、人々をどこか安心させる、巧みな表現力。

しかし、当時の人達の中には、モッガラーナさんの言葉をそのままに解釈し、神通力(特殊能力)の類として理解していた人がいたかもしれません。

モッガラーナさんも、それが他の人の励みになるのならば、それでいいと考えていた。結果、神通第一と称される人物となったとも考えられます。

ただ、親友のサーリプッタさんには「神通力でお釈迦さんと会っているわけではない」と語っています。

エピソード(雑阿含経第18-503)

サーリプッタさんとモッガラーナさん、そしてアーナンダさんが竹林精舎にいた時のことです。

明け方(おそらく朝起きて行う最初の坐禅・暁天坐禅きょうてんざぜんの後)、サーリプッタさんとモッガラーナさんが話していました。

ちなみにお釈迦さんはというと、祇園精舎にいました。竹林精舎と祇園精舎は、マガダ国とコーサラ国、別々の国にあり、遠く離れています。

サーリプッタさんはモッガラーナさんを見るやいなや、こう言いました。

「すごいよ! モッガラーナ! 君は今夜において、穏やかに落ち着いて、正しくあらゆるようを受けとっているようだったよ」

暁天坐禅は、朝が明けないうちから明け方の行います。ですから、今夜と言うのは、おそらく、暁天坐禅の時のことを指しているのだと考えられます。

日課である朝一番の坐禅の後に、突然親友から、このように言われたモッガラーナさんは、少し戸惑ったでしょう。

モッガラーナさんは、サーリプッタさんに言いました。

「私は、全くあなたの呼吸の音が聞こえなかったよ」

サーリプッタさんの言うように、「正しくすべてのようを受けとる、感じとっているのであれば、あなたの呼吸の音もすべて聞こえていたはずだ」という意味なのでしょうか?

それとも、「あなたも静かに坐っていたよね」という意味なのでしょうか?

いずれにせよ、モッガラーナさんは、サーリプッタさんのいうことを否定しました。

「サーリプッタ、そんなことはないよ。それに、たとえ、あなたの言う通りだったとしても、それはそれで、随分、粗く、あらゆるようを受けとっている耳だったのだろうね。

サーリプッタ。私はね、今夜において、お釈迦さんと共に語っていたんだよ」

モッガラーナさんの言葉は、そのまんまの意味で受け取ると確かに意味不明です。しかし、その言葉の裏に、知的なユーモアを感じます。

親友のサーリプッタさんは、モッガラーナさんのユーモア溢れるセリフに、ノリました。(ノリが良いの「ノリ」です)

「モッガラーナ! お釈迦さんは今コーサラ国の祇園精舎にいるんだよ。

そこはここからかなり遠くにある。どうやって共に語ったというんだい!?

君は今、竹林精舎にいる。どうやって共に語ったというんだい!?

君は、神通力で、お釈迦さんの所に行ったのかい!?

それとも、お釈迦さんが、神通力で、君の所にやってきたのかい!?」

今であれば、語尾に「!?(笑)」と表現してもいいぐらい、少し冗談めいたようにいうサーリプッタさんの顔が浮かんでくるようです。

それに対して、モッガラーナさんはこう応えました。

「私は、神通力で、お釈迦さんの所へ行くわけではないよ。

また、お釈迦さんも、神通力で、私の所へ来ているわけではないよ」

確かに、自分の事を神通力の達人と思っているような人もいるかもしれないけれども、別に本当に神通力でお釈迦さんの所にいっているわけではないよ。親友の君ならわかっていると思うけど……。

私にはそんな声も同時に聞こえてくるようです。

モッガラーナさんは続けて応えます。

「しかも、私は(祇園精舎のある)コーサラ国の首都シラーヴァスティで聞いたんだが……、お釈迦さんと私は共に、天眼、天耳を得たからだと……。

で、私はよくよくお釈迦さんに質問した。それはいわゆる、【精進しょうじん】についての話だった」

ここで天眼、天耳という言葉で出てくるとまた誤解しそうですが、お釈迦さんと共に同じ眼、同じ耳ということで、同じ目線、同じ声(言葉)で物事を考えているというような意味と考えられます。

あるいは、「目を閉じればお釈迦さんの顔が浮かび、耳をすませばお釈迦さんの声が聞こえる」ぐらい、お釈迦さんとモッガラーナさんは意思疎通ができた、という意味とも受け取れます。

いずれにせよ、モッガラーナさんは、【精進】という教えについて、お釈迦さんと語り合ったことを、サーリプッタさんに伝えました。

サーリプッタさんの興味がお釈迦さんの教えの方にシフトしたのかもしれません。

サーリプッタさんは尋ねます。

「精進ということだが、具体的にはどんな話をしていたのでしょうか?」

モッガラーナさんは、応えました。

「お釈迦さんはこう答えていましたよ。

『モッガラーナ。もし昼になったら、坐る。あるいは経行きんひん(ゆっくりと歩くこと。坐禅と坐禅の合間に行う)する。法を以て、自淨其意じじょうごい(自らその心浄らかなり)。

夕刻には、坐る。あるいは経行きんひんする。法を以て、自淨其意じじょうごい(自らその心浄らかなり)。

夜には、屋外に出て、足を洗う。(沐浴もくよく)また屋内に戻り、右脇を下にして臥す。(開枕かいちん

夜明け前は、ゆっくりと目覚め、ゆっくりと起きる。そして坐る。あるいは経行きんひん。法を以て、自淨其意じじょうごい(自らその心浄らかなり)。

これが精進ということですよ』と」

行住坐臥ぎょうじゅうざがという禅の言葉があります。歩く、止まる、坐る、臥す。これで、日常のふるまいのことを意味します。

日常の振る舞いが精進そのものである。そのようにも受け取れます。

サーリプッタさんはその言葉を聞いて、モッガラーナさんに言いました。

「君というやつは……、モッガラーナ。本当に大神通力、大功徳とでもいうべき所に、安坐、坐っているのだね。

私もまた大力(大いなる力)を以て、君とともになることを得たよ。

モッガラーナ。例えば、大きな山と小さな小石だ。

別々に見た時は、違う色だったとしても、大きい山に、小石を持ってきて、その大きな山に投げ入れたとする。すると、小石は、大きな山とともになる。同じ色となるように。

私もまたそれと同じ。

君の大いなる力、大いなる徳とともになり、坐ることができたよ。

君と交友をも持ち、ともに敬い成長する間柄にある者は、大いに利益りやくがある。

私もまた君と交友を持つことで、ご利益りやくを得たよ」

君と親友で本当に良かった。私にとって、君という友を持っているということが、本当に有り難いと、サーリプッタさんの気持ちが表れています。

「利益」という字は、現在では、金銭的に儲かったや得をするという意味で使う利益りえき、あるいは、神や仏から与えられる幸運という意味で使われる御利益ごりやくが一般的です。

しかし、ここでいう利益りやく、仏教でいう利益りやくの意味は、損得や運という意味ではありません。

「自分にとって良い影響を与えてくれる」と解釈したほうがわかりやすいでしょうか。

モッガラーナさんもサーリプッタさんに言いました。

「私も今、大智、大功徳とでもいうべき所に、ともになり、坐ることができたよ。

小石を持ってきて、その大きな山に投げ入れたように。小石は、大きな山とともになる。同じ色となるように。

私もまたそれと同じ。

大いなる智、サーリプッタとともになり、坐る。同じ道を歩む、親友となれてよかったよ」

そして、しばらくの話を終えて、各自、各場へと戻っていきました。

ひょっとしたら、サーリプッタさんの言葉を受けて、モッガラーナさんは照れていたかもしれませんね。

サーリプッタさんの言葉を引用して、また自分の気持ちを共に伝えました。

この経典の冒頭にはアーナンダさんの名前がありますが、この会話の中にはさすがに入れなかったようです。

きっと親友同士のやりとりを、その横でアーナンダさんが黙って微笑ましく聞いていた。そんなシチュエーションだったのかもしれませんね。

最後に

太字の部分は、経典を基に訳しましたが、それ以外の部分は、私の主観的なイメージ大きいです。

こう読めなくもないという翻訳になってしまいましたが、こうやって読んで見ると、神通第一と呼ばれていたモッガラーナさんを、親友のサーリプッタさんが、茶化しているようにも見えてきます。

それでも真剣に答えるモッガラーナさん。茶化していたはずのサーリプッタさんが、ふと気づいた時には、仏法について真剣に語り合っていました。

同じ道を共に精進する友人、お互いに切磋琢磨し合える友人の存在は、お互いにとってとても大きな存在だったことでしょう。まさしく善知識だったんですね。

2021年5月

エピソード部分は、太字部分は原典の沿った翻訳ですが、それ以外は補足として加筆致しました。
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