仏教エピソード第16話でキンスカの木のエピソードをご紹介しました。
第16話では「ジャータカ」というお経に出てくるキンスカの木の話が元になっていますが、本記事でご紹介するキンスカの木の話は、阿含経に出てくるものです。阿含経は、ジャータカより古いお経です。
キンスカの木のたとえ話(昔話)が、お釈迦さんによって語られています。
エピソード(雑阿含経巻第12-1175)
多くの弟子と共にお釈迦さんが祇園精舎にいた時のことです。
他の宗教家のお弟子さんが祇園精舎にやってきました。彼はその場にいたお釈迦さんの弟子の一人にこのような質問を投げかけました。
「お釈迦さんの弟子であるあなたは、如何に知ることで、悟りを得るのですか? 如何に見ることで、悟りを得るのですか?」
「自らの身体や心、五感や知覚などを観察します。湧き上がる、流れ去っていく、味わう、気になる、離れていく。そんなあり様を正に知るのです。
是比丘は、このように知り、このように見るわけです」
この言葉を聞いた彼は、いまひとつピンと来ませんでした。
そしてまた、別のお釈迦さんの弟子の所にいって、再び同じ質問をしました。
「お釈迦さんの弟子であるあなたは、如何に知ることで、悟りを得るのですか? 如何に見ることで、悟りを得るのですか?」
「私達人間は、五感や知覚を通して、この世界の様々なことを感じます。生じ、滅し、感じ、執し、離れていく。そんなあり様を正に知るのです。
是比丘は、このように知り、このように見るわけです」
この言葉を聞いても彼はまた、いまひとつピンと来ませんでした。
そして更に、別のお釈迦さんの弟子の所にいって、再び同じ質問をしました。
「お釈迦さんの弟子であるあなたは、如何に知ることで、悟りを得るのですか? 如何に見ることで、悟りを得るのですか?」
「自らの身体と心において、変化しているあり様を観察します。苦しみと向き合い、自己と向き合い、そのあり様を正に知るのです。
是比丘は、このように知り、このように見るわけです」
この言葉を聞いても彼はまた、いまひとつピンと来ませんでした。
そこで彼は、直接、お釈迦さんの所にいって、同じ質問をすることにしました。
「私は一人静かに考えていました。『如何に知ることで、悟りを得るのだろうか?如何に見ることで、悟りを得るのだろうか?』と。
お釈迦さん。このことについて、既に三人程、あなたの弟子に聞いてまわりました。
そのどれを聞いても私には、いまひとつピンとこないし、三人共言っていることがバラバラでした。
そこで私は、あなたに直接お聞きしようと思い、こうしてやって参りました。
お釈迦さん。あなたは如何に知ることで、悟りを得るのですか? 如何に見ることで、悟りを得るのですか?」
そこでお釈迦さんは、こんなたとえ話を語りはじめました。
「昔、ひとりの男がいました。
彼は今までの人生において、一度も、キンスカの木を見たことがありませんでした。そこで彼はキンスカの木を見たことがあるという者の所にいき、キンスカの木について尋ねることにしました。
『あなたはキンスカの木を知っていますか?』と。
『知っているよ』との答えに、彼は加えて、こう尋ねました。
『キンスカの木とは、どのような木なのでしょうか?』と。
『その色は黒く、まるで火で柱をが焼き焦げたようだった』
こう聞いた彼ですが、いまひとつピンとこなかったそうです。
彼はまた別の人物の所へいき、同じくキンスカの木について尋ねました。
『あなたはキンスカの木を知っていますか?』と。
『知っているよ』との答えに、彼は加えて、こう尋ねました。
『キンスカの木とは、どのような木なのでしょうか?』と。
『その色は赤く、まるで(ぼたん鍋のように)切られたお肉が段々に重ね敷き詰められているようなだった』
こう聞いた彼ですが、この答えにもいまひとつピンとこなかったそうです。
彼はまた別の人物の所へいき、同じくキンスカの木について尋ねました。
『あなたはキンスカの木を知っていますか?』と。
『知っているよ』との答えに、彼は加えて、こう尋ねました。
『キンスカの木とは、どのような木なのでしょうか?』と。
『もさもさっとした毛みたいなものが垂れ下がっているね。尸利沙果という名前の木と同じようなかんじだね』
こう聞いた彼ですが、この答えにもいまひとつピンとこなかったそうです。
彼はまた別の人物の所へいき、同じくキンスカの木について尋ねました。
『あなたはキンスカの木を知っていますか?』と。
『知っているよ』との答えに、彼は更に尋ねました。
『キンスカの木とは、どのような木なのでしょうか?』と。
『その葉は青く、また滑らかで大きな葉です。まるで尼拘婁陀樹のような樹ですよ……』
さて、彼のように、キンスカの木について尋ねまわり、その答えに満足がいかず、次から次へと場所を変え、その答えを求めたとしても、キンスカの木を見た人達は、各々が見た時期や場所で、各々が注目にした所を語ります。その為、答えは同じではないわけです。
あなたが私の弟子達に尋ねまわったことは、こういうことなのです」
お釈迦さんは、更にもう一つ、たとえ話を彼に語り始めました。
「もうひとつ、こんなたとえ話をしましょう。とある辺境にある小さな国の話です。
その国には、国全体をぐるっと囲む城壁がありました。城壁の東西南北には堅固な門があり、国の中心にある城からそれら四方の門の先へと、それぞれ道が通じていました。
道は平らかによく整備され、門や城壁には優秀な兵が配備され、しっかりと治められていました。
中でも、東西南北の四つの門には、それぞれに聡明な人物を長とし、守護者としての任にあたっていました。
この国を往来するものは、四方の道、いずれかを通り、東西南北のいずれかの門をくぐることになります。
もし、東方より他国の使者が訪れたとしたら、彼の使者は、まず、門にて、守護者である長と話すことになるでしょう。
そこで、彼の使者が尋ねました。『城主はどこにおられるのですか?』と。
それを聞き、門の長はこう答えました。『主は、この道の先、四つの道が交わる、その頂きにおられる』と。
彼の東方からの使者は、それを聞き、城主のもとへと詣りました。そして、彼は城主より教令を受け、それを本国へと伝えるべく、来た道を還っていきました。
もし南方より、もし西方より、もし北方より、それぞれ他国の使者が訪れたとしたら、彼の使者たちも、また、それぞれの門にて、それぞれの門の守護者である長と話すことになるでしょう。
『城主はどこにおられるのですか?』と尋ねれば、『主は、この道の先、四つの道が交わる、その頂きにおられる』と、答えられるでしょう。
そして、彼の使者達は、城主のもとへと詣り、教令を受け、また、各々の本国へと還るでしょう」
こうして、たとえ話を語り終えたお釈迦さんは、他の宗教家のお弟子さんである彼に対して、最後にこう言いました。
「今、私がしたこの喩え話、その道理とは何なのでしょう……。
ここでいう国とは、人を指します。
ここでいう城壁がしっかり治められているということは、仏道の行をしっかりと修めていることのたとえです。
道が平らかによく整備されている。これはあなたが私の弟子から聞いた『自らの身体や心、五感や知覚などを観察し、そのあり様を正に知る』ことのたとえにもなるでしょう。
門、門の長、城主、使者や門の長がそのまま答えたことも、使者が道を還っていくことも、それぞれ、これはたとえになっています。
私が弟子の為になすべきことは、もうすでにやりました。以前、他のたとえ話をした時にも弟子達にも言った事ですが、ここからは、あなたがなすべきことをなしてください」
他の宗教家の弟子であった彼ですが、お釈迦さんからこのように聞いて以降、一生懸命、思惟しました。そして、ついには、彼の納得がいく所へとたどり着いたそうです。
メッセージ
「如何にして悟りを得るのですか?」
この質問は「キンスカの木はどのような木なのですか?」と聞いてまわるようなもの。
東の門から入ってきた者にとっては、目指す先は、西方であり、北の門から入ってきた者にとっては、目指す先は、南方であるように。
必ずしも、答えは同じというわけではない。
たとえ『主は、この道の先、四つの道が交わる、その頂きにおられる』と、同じ言葉を聞こうとも、西の門から入ってきた者は東方を目指し、南の門から入ってきた者は北方を目指す。
他(国の使)者が、自分の領域を訪ててくることもあれば、自分(の使者)が他者の領域を訪ねることもある。
それぞれが皆、城壁という境界線で囲まれた自(分という)国を有し、使者を送りあって、互いに交流している。
私自身にも、城主がいて、門の長がいて、使者がいる。壁があり、門があり、道がある。
他国からどんなに素晴らしい教令を、我が使者が受け取ったとしても、その使者は必ず本国に還り、また本国が実行に移さねば、その果報が自国に現れることはないだろう。
私も今一度、教令をよく考え、自国に活かしていきたいと願う。
補足
阿含経について
ジャータカについて
経典に出てくる木について