仏教エピソード㊵「滅について」

エピソード(雑阿含経巻第10-260)

ある時、祇園精舎にて。お釈迦さんの弟子であるサーリプッタさんが同じく弟子のアーナンダさんの所を訪ねました。

互いに挨拶を交わし、座に就いたところで、サーリプッタさんは、アナンダさんに言いました。

「尋ねたいことがあるのですが、少し時間を頂いても構いませんか?」

「構いませんよ。知っていることであれば答えましょう」

「ではアーナンダ。いわゆる『滅』とはどういうことでしょう」

「サーリプッタ。全てはこれ、ありのままの所、そのまんま。そしてこれは無常。つまり、いつまでも変らずにあるものなんてない。常にずっとあるものはない。あらゆるものは変化する。こうして滅するということが現れてくる。様々な事がそのようなことを教えてくれる。

あらゆるものはそうして滅するということを現しているが故に、これを名付けて、『滅』というのではないでしょうか」

「その通り。その通り。アーナンダ。あなたが説いた通りです。全てが、もし、ありのままの所、そのまんまでないのであれば、どうして滅するといえるのでしょうか。言えるはずありません。

アーナンダ。全てはこれ、ありのままの所、そのまんま。そしてこれは無常。あらゆるものは変化する。こうして滅するを様々な事が教えてくれている。あらゆるものはそうして滅するということを現しているが故に、これを名付けて、『滅』というのです」

と、二人は法の話に花を咲かせたのでした。

メッセージ

仏教を学んでいると、「滅」という言葉を見る機会は、意外と多いです。

単純に考えると「滅」というのは、消え失せるという意味に捉えてしまいがちです。完全に消え失せて、きれいさっぱり跡形もなくなると……。

しかし、この「滅」という言葉は、非常に難しく、語源を調べると、実に様々な意味が込められています。

今回のエピソードでは、「滅」について、お釈迦さんの弟子であるサーリプッタさんとアナンダさんが語り合っています。

この話を読んだとき、とある光景が脳裏によぎりました。

その時、私は「なるほど、死も一つの変化かと」と思い、すこし慰められた気がしました。

少なくともこの会話を見る限りでは、「滅」は変化の過程のような意味合いとして捉えることができるのではないでしょうか。

2020年10月

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