仏教以外の他の宗教を信じていたヴァッチャさんとお釈迦さんとの話です。
ヴァッチャさんはお釈迦さんの下を度々訪れ、お互いに話をしていたようです。今回の話では彼もまた、第7話で登場したマールンキヤさんと同じような質問をしました。
これは、彼とお釈迦さんのやり取りを記したエピソードです。
エピソード(雑阿含経巻第34-962「見経」)
お釈迦さんがシラーヴァスティーの祇園精舎にいた時のことです。
そこにヴァッチャという一人の修行者が訪れてきました。ヴァッチャさんとお釈迦さんは互いに挨拶を交わし、座りながら話し始めました。
「お釈迦さん。あなたは『世界は永遠である』とお考えですか?」
「ヴァッチャさん。私はそうは思いませんよ」
「では、あなたは『世界は永遠ではない。いつか無くなる』とお考えなのですね?」
「そうでもありませんよ」
「……?」
疑問に思う彼は、他の質問を投げかけました。
世界には果てがあるのか、はたまた、果てがないのか。魂と身体は一体なのか、はたまた、別なのか。人は死後も存在するのか、はたまた、しないのか。
しかし、お釈迦さんの答えは、「そうではありません」と、どれも同じ答えでした。
ヴァッチャさんは疑問をぶつけます。
「お釈迦さん。なんであなたは両方とも『そうではありません』と、全ての考えを認めないのですか?」
お釈迦さんは彼の言葉を受け、答えました。
「ヴァッチャさん。『世界は永遠である』というのは、一方的な見解ではないでしょうか。また、『世界は永遠ではない』というのも、一方的な見解ではないでしょうか。
世界には果てがあるだ、ないだ。魂と身体は一体だ、別だ。人は死後も存在するだ、しないだ。
このような一方的な見方は、密林のように、一度囚われるとなかなか抜け出せません。時には反対方向に、時には右往左往と、人を迷わせます。
また時には人を恐れさせ、その身を竦(すく)ませる危険な道でもあります。そして場合によっては、そこから身動きがとれなくなってしまうことだってあります。
また、それは苦しみを伴います。
ひょっとしたら善いことをしているつもりでも、結果として気付かずに悪いことをしている、なんてことにもなりかねません。
それによって何かを壊してしまったり、そこから悩みが生まれたり、その悩みにうなされる、なんてことがあるかもしれません。
このような一方的な見方は、なんの役にも立たないのです。だから私は、これらの考えを全て認めないのですよ」
ヴァッチャさんは、まだまだ納得ができない様子です。
更に、お釈迦さんに問いかけました。
「しかしお釈迦さん。あなたも何らかの見解はお持ちでしょう? 見解がなければ、一体どんな教えが説けるというのですか?」
お釈迦さんは答えます。
「ヴァッチャさん。私は何かの見解に囚われるということはありません。なぜならそれは、私がこのように見ているからです。
あらゆるものごとを、ありのままに見て、それがどのように生じ、またどのように無くなるのか。
このように見るから、私は一方的な見方や考えを持ちません。思いこみに囚われることも無ければ、それを自慢することもありません。何かに執着することもありません。
それ故、悩み苦しみの束縛から解き放たれている。つまり、煩悩から解脱していると説くのです」
お釈迦さんの言うことが、いまいちよくわからない彼は、更に問い続けました。
「それでは、お釈迦さん。そのように解脱しているという人は、一体どこに生まれ変わるのでしょうか?」
それを聞いたお釈迦さんは、再び答えます。
「ヴァッチャさん。『生まれ変わる』ということは適切ではありませんね」
「それなら、『生まれ変わらない』ということですか?」
「『生まれ変わらない』っていうのも適切ではありませんね」
「……」
ヴァッジさんは全く訳がわからなくなってしまいました。
「お釈迦さん。全く訳がわかりません。以前あなたは私に素晴らしい説法をしてくれました。 あなたを尊敬し、とても信頼していましたが、今やそんな気持ちは、どこかに消え失せてしまいました……」
お釈迦さんは、彼の困惑したその気持ちを察しました。
「ヴァッチャさん。あなたがわからないのも無理はないでしょう。この法はとても深い。そして微細かつ複雑で見難く、捉え難いものだからです。
異なる信仰を持ち、異なる考えや実践をしているあなたにとっては殊更、難しく感じるかもしれません。
それではヴァッチャさん。こういうのはどうでしょう。私からあなたに質問をします。あなたが思うように答えて下さい」
そう言ってお釈迦さんは、逆に彼に問い始めました。
「ヴァッチャさん。もしあなたの前に火が燃えているとしたら、『火が燃えている』とわかりますか?」
「もちろん。わかりますよ」
「では、もし『この火は何によって燃えているのですか?』と聞かれたら、どう答えますか?」
「そりゃあ……、薪か何か、火がつくものによって燃えているのでしょうね」
ヴァッチャさんはお釈迦さんの問いに、思うように答え続けます。
「ならばヴァッチャさん。もし薪につく火が消えたとしましょう。『火が消えた』とわかりますか?」
「もちろんですよ」
「では最後に聞きます。『あなたの前で消えたその火は、どこへいったのでしょう?』と聞かれたら、どう答えますか?」
「いやいや、その質問はおかしいでしょう。その火は薪があったから燃えて、薪が尽きたから消えたんですよ」
お釈迦さんは深くうなずきました。
「ヴァッチャさん。あなたのいう通りですよ。火が消えるって事はそういうもんです。あなたの問いに対する答えもまた、そういうもんです」
その言葉にヴァッチャさんは「ハッ!」と、何か気付くところがありました。そしてお釈迦さんにその喜びを語り、在家の信者になることを伝えました。
メッセージ
映画でも小説でも良い作品というのは、見る程に、読む程に、新しい発見を与えてくれます。私にとって仏教のエピソードもまた、そういうものです。だからこそおもしろいと感じます。
さて前回の第7話「答えない」では、大学生の私が受け取ったメッセージを書きました。
「答えないということは、わからないことなんだ」「結論が出ず、わからないことは、わからないままにしておきなさい」と。
しかし最近、前回と今回の二つのエピソードを読んで思うのは、お釈迦さんは「答えない」には違いありませんが、決して単にわからないというわけではないよう思うのです。
ただ「わからないことは、わからないままにしておきなさい」ということには変わりないのですが……。
前回のマールンキヤさんと今回のヴァッチャさんの共通点ですが、二人とも結論を必死に求めているように思うのです。これは大学生の私にも言えることでした。
まず、何がなんでも「答え」が気になって仕方がない。私も疑問が出ると、すぐ答えを出したがりました。
人は、答えがないと不安です。特に苦しかったり、追い込まれた時は、「どうしてなんだ?」「どうすればいいんだ?」と、焦る気持ちに呑まれるように答えを追い求めます。
また、わからないことが悪いことのように、思っている人も少なくないかと思います。
子供の頃から、私達はテストや受験などあります。テストでは「わからない」ということは、0点ですから、「恥ずかしい」「最悪……」と、知らず知らずのうちに、わからないことが恥のように感じてしまいます。
私もそのうちの一人でした。だからこそ「答え」を知りたがる気持ちが、大きいように思います。
しかし、答えが既に決まっている答案ならいざ知らず、その感覚を人生にまで持ち出してしまうと、大きな落とし穴があります。
答えがわからないという不安。答えがわからなければ、その不安はますます大きくなります。やがてその不安を何とかしようと、とりあえず結論を出そうとします。
そうして出した「とりあえずの答え」は、お釈迦さんの言う「一方的な見解」だったなんていうことは、よくあることです。
例えば小さい頃、私はトイレに行くのが怖くて仕方ありませんでした。私の場合、特に通っていた学校のトイレは、薄暗く、少し汚れた感じが不気味でした。小さな子供にとって、それは十分恐怖です。
その「恐怖」と言う不安に対し、仮に「答え」として登場するのが、「オバケ」です。
「オバケがいるから怖いんだ」と、とりあえずの答えが出ると、それ以上、恐怖について考えるのをやめてしまいます。そして次からは、オバケがその代わりになります。
「恐怖」を克服するのは、簡単なことではありません。しかし「オバケ」となると、その対応も簡単になります。
「どうしたらいいのかな?」
「三番目のトイレは、ヤバイらしいよ」
「なら三番目を避ければ大丈夫」
条件付きではありますが、恐怖を克服する手立てが生まれます。しかし一方で、「とりあえずの答え」は、「恐怖=オバケ」と一方的な見方を生み、思いこみや先入観も生み出します。
そして、そういった思い込みは、エピソード中のお釈迦さんの言葉にもあるように、苦しみを伴い、新たな悩みを生む場合があります。
「三番目を避けたほうがいい」
「三の数字は不吉だから注意しよう」
「今日は三日だから不吉な日だ。どうしよう?」
一見、笑い話のようにも思えますが、思い込みや先入観は、誰しもが知らない間につくってしまうものです。
特に答えを渇望する人にとっては、他から与えられる安易な答えは魅力的に映るかもしれません。そうやって、他人の言われたことに振り回されたり、そこから新たな悩みが生まれたりします。
ただ「どうして?」と疑問を抱くことも、また、疑問を解決したいと思うことも、人としてごく当たり前でのことです。私は大切なことだと思っています。
もちろん、思い込みや先入観を持つことも、人間なら誰しもがあることです。
しかし、わからないことがあるということも、人間として、ごく当たり前の事実です。
私達は本当のところ、答えは「わからない」という、ありのままの自分を素直に受けとめることも、また必要なんじゃないでしょうか?
この「一方的な見解」の恐ろしいところは、自分の中での結論に、それ以上疑いを持たず、目を向けなくなってしまう。「わからない」という事実を忘れさせてしまうことにあると思うのです。
オバケの話でいうなら、恐怖の原因を忘れさせてしまうことですかね。実際のところ、私自身も何が怖かったのかもわかりません。
それが正解か不正解なのか、本当のところわからない。この世の中には、それが証明できないものが山ほどあります。
今回のエピソードで出てきた話も同じことです。自分のことですら、わからないことだってたくさんあります。
人間わからないことがあるなんて、当たり前のこと。わからないことは決して恥ではありません。
その当たり前の事実に気付かなくなることのほうが、思い込みに囚われたり、自分自身を見誤ったり、返って悩み苦しみを生んでいく。
だからお釈迦さんのように「答えない」ことが、ちゃんとした「答え」になっていたのかもしれません。
「わからないことはわからないままに」というのは、とても深みのあるメッセージだと思います。