仏弟子とはお釈迦さんの教え、つまり仏法を聞き、それを実践する人のことです。
それに対して、仏教では凡夫という言葉が反対語として用いられ、仏法を知らない人を指します。
両者ともに人間である以上、苦楽を感じ、様々な感情が生まれてきます。
では両者の違いとは何なのでしょうか?
エピソード(雑阿含経巻第17-470「箭経」)
お釈迦さんがマガダ国の首都、ラージャグリハにある竹林精舎にいた時のことです。お釈迦さんは、弟子達にこのような問いを与えました。
「未だ仏の教えを聞いたことが無い、いわゆる凡夫と呼ばれる人達。そして、仏の教えを聞ける、いわゆる仏弟子と呼ばれるあなた達。
凡夫も仏弟子も共に、私達は人間であることに変わりありません。快く感じたり、不快に感じたり、また喜んだり、憂いたりもします。
いずれにしろ、凡夫であれ、仏弟子であれ、人間である以上、苦楽を感じ、また喜怒哀楽などの感情が生まれてきます。
では、凡夫と仏弟子と一体何が違うのでしょうか?」
その場にいる弟子たちは、その問いに頭をひねらせました。しかし誰一人答えられません。
ついには、弟子の一人がこう言いました。
「師匠。お願いします。その事について是非とも、私達にお説きください」
お釈迦さんは軽く頷き、そして次のように言いました。
「いいですか? 凡夫と仏弟子の何が違うのか。それは二つ目の矢を受けるか否かの違いなのです」
「・・・・・・・?」
弟子たちは、ぽかーんと口をあけたまま、黙ってしまいました。その様子を見て、お釈迦さんは次のように説き始めました。
「人間である以上、私達は物事、出来事等から何かを感じ、受け取ります。苦・楽を感じたり、そして喜怒哀楽などの様々な感情が生まれてきます。
中には、そういう感情が一切生まれてこない、いわゆる無関心ということもあります。そのような苦楽などを感受する作用や、そこから生まれた感情、また無関心というのも含め、『受』と呼びます。
仏法を知らない凡夫は、二種類の『受』を感じます。それは例えるなら、第一の矢に刺され、そして第二の矢にも刺されるようなものです。
例えば、自分の好ましいものに対して、快い感覚を受け、嬉しいという感情が生まれます。
そして更に、それを熱望したり、執着します。それ故に、飽くことなく貪り求める『貪欲』
という煩悩に囚われてしまいます。
例えばまた、嫌悪するものに対して、不快な感覚を受け、苛立ちという感情が生まれます。
そして更に、それを憎み、憤怒し、また害そうとする心を起こします。それ故に、激しく怒り、憎しみ怨む『瞋恚』という煩悩に囚われてしまいます。
例えばまた、自ら興味を抱かないものに対して、なんら感情を持たない、いわゆる無関心となります。
そして更に仏法であるこの『受』の理(ことわり)を知らないため、自らの関心事のみに心奪われ、視野が狭まります。それ故に、道理や物事をあるがままに見て知ることができない『愚痴』という煩悩に囚われてしまいます。
一方、仏法の教えを聞ける仏弟子は、ただ一つの『受』を感じるだけなのです。それは例えるなら、第一の矢に刺され、第二の矢を受けないようなものです。
例えば、凡夫と同じく、自分の好ましいものに対して、快い感覚を受け、嬉しいという感情が生まれます。
しかしその快感に酔い痴れることがありません。それ故に、『貪欲』の煩悩に染まることはありません。
例えばまた、凡夫と同じく、嫌悪するものに対して、不快な感覚を受け、苛立ちの感情が生まれます。
しかし、その不快感に振り回されることはありません。それ故に、『瞋恚』の煩悩に染まることはありません。
例えばまた、自ら興味を抱かないものに対して、なんら感情を持たない、いわゆる無関心となります。
しかし、仏法の教えであるこの『受』の理を知っているため、自らの関心事以外にも気がつき、視野が広がります。それ故に、『愚痴』の煩悩に染まることはありません。
第二の矢を受けないとは、こういうことなのです」
弟子たちは、各々頷き、そして喜びました。お釈迦さんは最後に、このような詩をもって、
この話を締めくくりました。
「仏弟子は苦楽において、気づきを得ないことはない。
凡夫人より、大いに気づき知ることがある。
楽を受けては、放逸をなさず。
苦を受けては、憂いを増さず。
苦楽の二辺を捨てて、随わずまた違わず。
仏弟子は諸法を勤めて、正智を傾かせず。
この一切の『受』において、仏智をも悟りうる。
諸々の『受』を悟り知るが故に、法は煩悩を覆い尽くす」
メッセージ
今回の話にも出てきた「貪欲」「瞋恚」「愚痴」。煩悩と呼ばれるものの中で、最も気をつけなければならない三つの煩悩です。
この三大煩悩をひとまとめして「三毒」と呼んでいます。
一般的に、貪欲=欲望、瞋恚=怒り、愚痴=無知と理解されています。
煩悩や三毒などと聞くと、いかにも悪の根元のように聞こえるので、仏教は、この欲望などの煩悩を無くすために修行していると考える人も多いかと思います。
そして、これら悪いものを完全に無くした姿が、仏や悟りと呼ぶのだろうと、誰もが単純に考えるでしょう。
中にはそこから、雑念を取り払い、心に一切の穢れのない、清らかで真っ白な姿を、仏の理想像として抱いている人がいるかもしれません。
ですが、その先に私が想像した仏の姿は、確かに雑念もなく、心に穢れのないものですが、まるでそれは、ロボットのように無感情で、人間味のない無機質な仏でした。
その理由は、煩悩の無い人間の姿が、私には全く想像できなかったからです。
ましてや、煩悩の全くないのが仏だとして、修行して、それを目指せと言われても、途方に暮れてしまいます。
どんなに考えても、欲望の無い、怒りのない、知らないことのない人間などありえない。私はずっとそう思い、長い間、仏教に共感を持てませんでした。
今思えば、私と仏教の関わり方は、このように疑うことから始まったように思います。
ところが、私が出したこのような結論は、実は誤解に基づいて導き出されたものでした。
その誤解とは、冒頭から煩悩を滅し尽くすべき悪者としていることから、既に始まっていたのです。
それに気付いたのは、「第二の矢」の話のおかげでした。
この話にも煩悩がどのように生まれるかが、少し述べられています。
私達は物事、出来事などから何かを感じ取り、また、苦・楽を感じ、また様々な感情が生まれてきます。また無関心であることもあります。
それらの感受する作用を仏教では「受」といいますが、人間である以上、これは誰にでもあるものです。
さて、三毒呼ばれる煩悩、その原因を追いかけてみると、それは、人間の誰しもがもっている感受作用。「受」から生まれてくることに気がつきます。
例えば欲望に関して言えば、草原に咲く一輪の華を見て、美しい・素晴らしいと感じます。そういった感情は快いもので、こころよく受ける感覚を、仏教では「楽」といいます。
「楽」を感じるものを、当然、人は「いいなぁ~」と好みます。そして「いいなぁ~」と思う好きな物は、当然「欲しいなぁ~」とも思うでしょう。
欲しいものを無理やりにでも、自分ものにしようとすると、欲しがり、むさぼり求める、つまり「貪欲」という煩悩に結びつきます。
もし、仏教の目指すものが、悟りを得るために悪者である煩悩を完全に無くさなければならないのであれば、やはり仏教は、人間が当たり前にもつ感情や感覚までも、滅しつくさなければなりません。
そうなるとやはり、私の想像通り、ロボットにでもなる他ありません。しかし、仏教はそのような考え方ではないと、この話は教えてくれています。
このエピソードでお釈迦さんが説いているのは、決して煩悩を完全に無くせということではなく、「第二の矢」に気をつけなさいということでした。
「第一の矢」、それ自体は水面に起きた波紋にすぎません。水がある限り、必ず波が起こります。人が生きている限り、心は動き感じます。波が立たない水はありません。
しかし、その波の動きに翻弄され、器である自分自身が動き出し、余計な荒波を立ててしまう。
「第二の矢」は、そんな自分自身から放たれる矢を象徴しているのだと思います。
水に波が立つのは当たり前。気をつけるにはまず、その当たり前に気づかなければいけません。
仏教は、人間誰しもが当たり前に持つものを、決して否定しているわけではありません。そして、そこから描き出される仏の姿も決して人間離れしたものではありませんでした。
いくら悟りを開き、仏と呼ばれるお釈迦さんと言えども、悩んだり、苦しんだり、失敗する場面が、経典の中にもしばしば見られます。また、美しいとか楽しいと語る場面も、経典には描かれていました。
決して苦楽を感じないわけではありません。
そこから、お釈迦さんも弟子たちも様々な感情を表現していました。
また、水が欲しい、食べ物が欲しいと思ったり、頼んだりする場面も描かれていました。お釈迦さんだって、ある程度の欲は持ち合わせていると思うのです。
私が抱いていた無機質で、どこか遠くの方に感じていたお釈迦様(仏様)は、この「第二の矢」の話を通して、何時しか、悩んだり、喜んだり、様々な表情を見せる、人間味のあふれたお釈迦さん(仏さん)へと変わっていました。