エピソード(雑阿含経巻第40-1108「得眼経」)
ある日、祇園精舎での事。お釈迦さんの弟子の間で揉め事が起こりました。
一人は「△&□○×!」と相手に罵声を浴びせ続けたのですが、一方その暴言を受けていた弟子は「……」とひたすら沈黙を保っていました。
そのおかげか、とりあえずその場はそれ以上何事もなく騒ぎは治まりました。
しかし、しばらくしてまたこの二人を中心に揉め事が起こってしまったのです。それはちょうど、お釈迦さんが祇園精舎に戻ってきた時でした。
騒ぎを聞きつけたお釈迦さんは急いでその場に駆けつけました。
とりあえず騒ぎを鎮め、その場にいた弟子達に事情を聞きました。すると弟子の内の一人が、事細かに事情を説明し始めました。
「実はこの祇園精舎の中で、二人がケンカになってしまいました。ケンカといっても、一人は大声で暴言を吐いていましたが、もう一人は一言も言い返さず、じっと耐えて黙っていました。
そのおかげでそれ程の騒ぎにはならなかったのですが……。
しかしそれからしばらく経った後のことです。暴言を吐いていた方が少し冷静になったのか、自らの過ちを認めて、一転して今度は以前罵ってしまった相手に謝罪をしに行ったのです。
しかし、謝罪された方は決してその謝罪を受け入れようとしませんでした。
心底反省した様子で何度も何度もひたすら謝っているのにも関わらず、その謝罪を受け入れない。
その様子を見て、さすがに周りにいた私達も『許してあげたら?』と促しました。しかし『罪は罪なんだ』と頑なに謝罪を受け入れませんでした。
すると周りの者も少しいきり立ってしまいまして、このような大騒ぎになってしまいました。そこへちょうど師匠がお戻りになられたというわけです」
そして弟子達から事情を一通り聞いたお釈迦さんはこのように言いました。
「私が思うに、この二人はともに愚か者です。罪を罪として見ない者、そして謝罪を受け入れない者。そのどちらも愚か者といわざるをえません。
しかし、私が思うにこの二人はともに賢き者です。罪を罪として見る者、そして謝罪を受け入れる者。このような二人はともに賢き者なのです。
古い昔話の中にこのような詩がありました」
そういってお釈迦さんは、天界で争いが起きた時に帝釈天という神が戒めの言葉として使った詩を用いて弟子達に諭しました。
「怒りに支配されるな。友情を朽ちさせないように。
非難してはならぬ事を非難するな。
関係を害うような言葉を語らないように。
怒りは愚か者を押し潰す。
まるで山が人を押し潰すかのように。
怒りの手綱を上手に持つ者は、暴れ馬を制するかのようである。
しかし上手に御すると言っても、綱に執らわれる事をいうのではない」
メッセージ
人が集まれば、人との接点が増えます。その分、人の間で衝突が起きやすくなってしまうのは物の道理なのかもしれません。
それは仏道を学ぶ者の集まりの中であれ例外ではありません。
今回のエピソードでは、衝突が起こる原因として二つの事が挙げられています。
それが「罪を罪として見ない事」「謝罪を受け入れない事」です。
罪というのはここでは怒りということになるでしょうか。怒り(瞋恚)は根本煩悩の一つです。(詳しくは 14話、 15話をお読みください)
弟子の一人はその怒りに支配され、仲間の心を傷つけてしまいました。
おそらく怒りに飲まれた本人は、自らの行為がお釈迦さんの教えに背く行為であると、その時自覚していなかったでしょう。
正確には教えなんかどこかに吹っ飛んでしまって、自らの行為を自覚する暇もなかったのかもしれません。
自らの行いが一体どういうことなのか? どういった結果をもたらしうるのか?
自らの行動の意味が見えないと争いが生まれてしまう。「罪を罪として見ない」というのは、そういう事を示唆した言葉なのだと思います。
そうした怒りに囚われてしまった弟子に比べ、もう一方の弟子は大人の対応でした。冷静にお釈迦さんの教えの通りに、しっかりと怒りの手綱を持ち、耐え忍びました。
この場合は誰が見ても正しい対応です。
しかし、彼の正しさは次の場面では全く正反対になりました。
これは私の勝手な想像ですが、おそらく彼は自らの行為の正しさに相当の自負があったのかもしれません。
何処から誰が見ても自分が正しい。向こうが間違っている。100人に聞いて100人共、皆答えは同じ。自分は潔白で相手は真っ黒。
そうして自分の正当性が揺らぎのないものになると、間違いを犯した人間に強く出てしまうことがあります。
私自身にも経験があります。
その時の自分の言葉は確かに正論です。一片の間違いも見当たらないと思えます。しかし、どこか硬く刺々しい。言葉や対応に全く柔らかさがなくなってしまうのです。
もしその時、謝罪されたとしても許すことはできないでしょう。
誰でも自分がどす黒くなることより清廉潔白であることを望みます。
しかし白くありたいと願えば願うほど、黒い存在は認められなくなります。
認めなければ許すことはできません。
そんな気持ちが謝罪を受け入れられない原因にもつながっているのではないかと思います。
罪は罪には変わらない。罪を犯すことを認めてはならない。
そんな真っ白さ、正しさは返って争いを生み出す原因にもなりかねません。
暴れないように制しようと手綱をもつことは正しいことですが、しかしガチガチに手綱を握り締めれば締める程、それは逆に自らを縛ってしまいます。
争いが起こるのは何も罪を犯した時だけ起こるだけではない。許さない時にも争いは起こるものだとこのエピソードは伝えてくれています。
「罪を罪として見ない事」と「謝罪を受け入れない(許さない)事」は、黒と白のように正反対の立場でありながら同じこと。
言い換えれば「謝罪を受け入れる(許す)事」は「罪を罪として見る事」と同じくらい難しいことなのかもしれません。
自らの行動を省みることなく謝罪をしない人は許されることはなく、ひたすら罪を責め続ける人は許すことができない。
自らの行動の意味を見るのも、謝罪を受け入れ許すことも、きっと人間の黒さも白さも受け入れなければできないことなのでしょう。