第14話「怒ったっていいことない」

更新日 2017-08-09

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第14話「怒ったっていいことない」

お釈迦さんに対して怒るなんて、
誰も考えたがことないかもしれません。
しかし、お釈迦さんも時には、怒りの矛先を向けられました。
「怒り」をテーマにした今回のエピソード。
お釈迦さんの所に、アコーサカさん、そして、ヴィーラギーカさんが、
それぞれ訪ねてきます。

エピソード(雑阿含経巻42 1153-1154「健罵経」)

お釈迦さんがラージャグリハの竹林精舎で、
坐禅をしていた時のこと。
坐禅から立ち上がったお釈迦さんは、
ゆっくりと歩く経行(きんひん)を行っていました。

その時、アコーサカという人物が、
お釈迦さんの所を訪れてきました。
彼は、お釈迦さんの姿を見るや否や、悪態をつき始め、
ゆっくりと歩んでいるお釈迦さんの後をつけながら、
責め立ててきました。
しかし、お釈迦さんは、ただ押し黙り、ゆっくりと歩いています。

経行(きんひん)が終わり、お釈迦さんが座へと戻る頃には、


「何も言い返せないのならば、俺の勝ちだな。
 俺はあんたを説き伏せたぞ!」


と、彼は騒いでいました。
その時、お釈迦さんは詩をもって、このように説きました。


「勝てる者は 更に怨みの念を増し
 敗れる者は 悔しさで夜も眠れない
 勝敗の二辺を捨て 是れ 安眠を得る」


その言葉に、虚を突かれたアコーサカさん。
騒ぐのをやめ、自らの過ちを悔い、反省しました。
そして、お釈迦さんの説法を聞き、喜んで帰っていきました。



また、お釈迦さんがラージャグリハの町で、家々を廻って、
施しの食事を受ける托鉢(たくはつ)をしていた時のこと。

その時、ヴィーラギーカという人物が、
突然、罵声を浴びせながら、近づいてきました。
そして、我を失ったように怒り狂う彼は、何を思ったのか、
地面の砂をつかみ、お釈迦さんに投げつけてきたのです。

しかし、その砂は向かい風に煽られ、
逆に自らの身に降りかかってきました。
唖然とする彼……。

そこで、お釈迦さんは詩をもって、このように説きました。


「怒り無き人に怒りをぶつけ、過ち無き人に悪態をつく。
 その悪、かえって自らを汚す。
 風に逆らい、土を投げ、かえって己を汚すように」


その言葉に我に返ったヴィーラギーカさんは、
自らの過ちを悔い、反省しました。
そして、お釈迦さんの説法を聞き、喜んで帰っていきました。怒ったっていいことない.jpg

メッセージ

怒ったっていいことない。
自分自身の過去を振り返ってみても、
怒りに任せた時ほど、ロクな結果になりません。

怒りのままに相手に文句をいうと、
一見、スッキリしそうな気がしますが、
実際の所、そうでもありません。

むしろ、お釈迦さんの言うように、
余計に腹立たしくなった自分がいます。
「なんでわからへんねん!?」と、愚痴ったり、憎んだりと、
まさに、怨の念が膨らんできます。

また、反対に、怒った時に反論される、なんてことがあります。
その時、まったく自分の言葉がうまく出てこず、
うまく言い返せない時は、悔しさが滲みでてきます。
それこそ本当に、夜眠る時に、ふと頭の中に思い浮かぶと、
悔しさで夜も眠れない思いです。

怒りのままに、勝ち負けの世界に持ちこんでしまうと、
白と黒のどちらがつこうとも、余計腹立たしい。
その状態は、よく考えれば、
自分の心は苦しんでいることがよく解ります。

それこそ、土を投げて、風に煽られて、自らが汚れるように、
怒った分だけ、実は自分の心には、苦しさが伴います。
「怒りに燃える」と、怒りは火に例えられることがありますが、
怒りが大きく燃え上がった時ほど、自分も火傷してしまいます。

むしろじっと我慢して、怒らなかった時の方が、
後で振り返ってみると、自分の心は苦しくなかったことに気が付きます。


しかし、怒らない方がいいと、頭では分かっていてもなかなか、
私達の心は都合よくはいきません。
訳もわからず、後ろから急に叩かれたら、
誰でもイラっとするでしょう。

それは、摩擦で熱や火花がおこるように、
思いがけずに起こることもあるので、
完全に止めることは不可能だと思います。

例えば、私達が火をおこす時に使うマッチは、摩擦によって発火します。
摩擦は、物体と物体が触れ合う時、必ず起こる力です。
物と物が接する時には、必ずこの摩擦が起こります。
摩擦が起こると熱を持ち、また、擦れ合う時に火花がおこります。

それと同じく、人の心や関係においても、
自分と他者の間で、摩擦が生じます。
私達は生きている限り、いろんな人や物、出来事に接します。
人も物も接する時には、必ず摩擦が起こります。

世の中、自分の都合通りには動いてくれません。
人間関係においても、人も物も触れ合う中で、摩擦が生じ、
時には、火花が飛び散ることはあると思います。

ここでいう摩擦の熱や火花が、苛立ちと呼ばれるものです。
この火花や熱は、完全に防ぎようはありません。
苛立ちも、その発生は完全には防ぎようがないと思います。

しかし、摩擦は何も悪いことだけを起こすわけではありません。
私達がコップを掴むことができるのも、
摩擦の力なくしては掴めません。
時にはお互いをくっつける力にもなりうるからです。

それと同じく、人の間でも、
お互いをくっつける力にもなりうると思います。
私にも兄弟がいます。もちろんケンカもしました。
でもそこから、相手のことを考えたり、時には妥協したり、
時には励ましたり、コミュニケーションを学んできたのも事実です。

いろんな人と摩擦がおこしながら、そこから思いやりや気遣いも、
励ますことや、責任を持つことも、覚えていくのだと思います。
生まれてからこの方、誰にも迷惑をかけたこと無い人なんていません。
迷惑をかけながら、摩擦をおこしながら、怒ったっていいことない2.jpg
迷惑をかけないことを覚えていきます。

さて、ここで振り返って、自分の怒りの出火原因を考えると、大抵の事はどれも、小さな火花から生まれています。
ほとんどの事は、どれも小さなすれ違いから起きていないでしょうか?

しかし、その火花が自分自身に燃え移り、
そして大きな怒りの炎になっていく。
私はこの大きくなった炎が、
仏教では「瞋恚」と呼ばれる煩悩だと思うのです。

ですから、怒りの炎と言えど、根本から無くせるわけではありません。
摩擦から自然に生まれる熱や火花は止めようがありません。
問題なのは、自分自身についた火を最小限に食い止めるか、
または、自分が燃えないように努めることなのだと思います。

自分が燃えやすい材質になっているのであれば、
炎は瞬く間に大きくなってしまいます。
しかし、日頃から注意して、
自らを燃えにくくすることもできるはずです。

生きている木はなかなか燃えませんが、枯れた木はすぐ燃えます。
心も枯れ木のように、カラッカラになればすぐに燃えてしまいますが、
心も豊かに潤っていれば、なかなか燃えにくいはずです。
そして心の潤いを与えてくれるのも、
また人や物などの触れ合いからだと私は思います。

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最後までお読み頂き、ありがとうございました。