第28話「琴の音色」

更新日 2017-08-09

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第28話「琴の音色」

エピソード(雑阿含経巻第12 1169)

お釈迦さんがコーサンビーのゴーシタ精舎にいた時の事です。
精舎にはたくさんの弟子達が集まり、
お釈迦さんの話を聞いていました。
その話の中でお釈迦さんは、とある昔話を語りました。



昔むかし、あるところに一人の王様がいました。
ある日、王様の耳元に、何とも素晴らしい音色が聞こえてきました。

今まで聞いたことが無いほど綺麗な音色に
王様は聞きほれていました。
そしてその音が聞こえなくなると、
王様はすぐ近くにいた大臣に言いました。


「うむ。実に素晴らしい音色だった。
 おい! あれは一体、何の音だったのだ?」


「王様。あれは琴の音かと思われます」


「ふむ。ならばその琴の音を持ってまいれ」


「承知いたしました」


大臣はすぐさま部下に命じ、琴を持ってこさせました。
しかし、王様は何やら不機嫌そうに言いました。


「なんなのだ。これは」


「王様。これが琴でございます」


「私が必要なものはこれではない」


「ですから王様。
 これこそが琴であって、あの音色を作り出すのですよ」


「このようなものは要らぬ。
 私はあの音色を持って来いと言ったのだ」


「……と言われましても、王様。琴の音色というのはですね。
 つまり、このように支柱や胴と言われる部分があって……、
 また弦というものが、こうして張ってありまして……、
 そして音を調整する糸巻きなどですね。

 いろんなものが組み合わさって、
 この琴という楽器があるわけでございます。
 そして更に言えば、その琴を弾くためのつめも必要です。
 それに、それ相応の演奏者も必要なわけです。
 それらがうまく組み合わさって初めて、
 あの素晴らしい音色が現れるのですよ」


「……私はあの素晴らしい音色を持ってこいと言ったのだ」


「王様。音色というものは、自分自身を通り過ぎていき、
 そしてまた消えていくものです。
 ですから、さっき王様がお聞きになった、
 あの素晴らしい音色も持って来たりできるものではございません」


「あぁ……。ならば、お前のよこした偽物に用はない。
 この琴と言うものは嘘偽りだ。
 しかも私達を惑わし、執着させる……」


そう言って王様は、琴をたたき割ってしまいました。


「今、バラバラになったこれを持って行け。
 そして四方八方にぶちまけてまいれ」


命を受けた大臣は、更に粉々にしてから、
あちこちにばら撒き捨てに行きました。



お釈迦さんは昔話を語り終えると、最後にこのように言いました。


「琴の音は確かに聞こえていながら、次の瞬間には……ない。
 私達の五感や心で感じることも含め、この世の全ては、
 様々な条件や原因によって生じ、変化し、また滅していく。
 あらゆるものは移り変わりゆく。
 永遠に変わらないものなどないのです。

 そうと知っているにも関わらず、私達はこう言ってしまうのです。
 これが私(我)、これは私の物(我所)と。
 しかし、これらも確かに感じながら、次の瞬間には……ない。
 弟子達よ。このことをよく観察し、参究なさい」

(28)琴の音.gif

メッセージ

あらゆるものは移り変わりゆく。無常(常なるものは無い)。

それを自分に引き付けて考える教えに
「無我」という教えがあります。

つまり、あらゆるものの中には、
当然自分自身も含まれています。
私(我)も生じ、変化し、そして滅していくというわけです。

私にとって無常の教えは、否が応でも認めざるを得ない教えでした。
なぜなら自然から、学問から、
あらゆるものから、それを見せつけられるからです。
しかしそれが、いざ自分の事となると受け入れがたく感じました。

その理由は、私の場合「無我」という言葉の受け取り方にありました。
一般的に「無我」というと「我が無い」と受け止められがちです。
私自身も過去、そうように受け止めていました。
しかし「我が無い」「私なんて無いんだ」となると、
どうしても納得がいきません。

「私(我)があることが全否定なのか?」
「私(我)の意志は無駄なのか?」
「私(我)を無くして教えに没頭すればいいというのか?」
「現に私(我)と感じている私(我)は、どう説明するんだ?」
などなど。

ひねくれ者の私には、
こうして「無我」ついて様々な疑問が生まれてきました。

しかし仏教を学んでいくと、それは誤解であることに気がつきました。
そのきっかけは、仏教書の中でよく見かける「非我」という言葉でした。

無我は非我とも訳されます。
単純に考えると「無我=非我」で用いられるわけです。

非我という言葉は「我に非ず」と読みます。
無我という言葉は「我が無い」と読みます。
しかし無我は「我で無い」とも読むことができます。

たった助詞一つの違いですが、
「我が無い」と読んでしまうと、
非我との意味と通じなくなってしまいます。
「我無い我に非ず」「我無い我に非ず」

つまり無我とは決して「我(私)が無い」という意味ではありません。
では我(私)があるのかと言われると、
非我である以上、そうとも言えないわけですが。

ではどういうことなのか?
その疑問の参考に今回のエピソードを読んで頂ければと思います。

また今回はメッセージの追記として、
以下の随想を参考していただければと思います。
これが私自身の体験から感じる「無我」という教えの受け取り方です。

随想録随想録
【随想録「声」】に続く

2016年6月サイン鳥.gif

最後までお読み頂き、ありがとうございました。