第30話「法を伝える」

更新日 2017-08-09

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第30話「法を伝える」

エピソード(増一阿含経巻第10 勧請品第19)

それは、お釈迦さんが悟りを開いてまだ間もない時のことです。
お釈迦さんは
ネーランジャラー河のほとりにある菩提樹の下で坐っていました。
その時、ふとこんな思いが浮かびました。


「私が悟ったこの法は、
 はっきりとせず、なかなか了解することが難しい。
 そして気づき知ること難しく、思い量るべきでない。

 だったら……、私が人のために法を説いても、
 誰も信用せず、実践してくれないのではないだろうか。
 もしそうなったら、ただの骨折り損のくたびれ儲け。
 それならいっその事、ただ黙っていたほうがいい。
 どうして、わざわざ説く必要があるだろうか……」


そう思い至った時、お釈迦さんの心には、
まるで天の声のような、こんな気持ちが湧いてきました。


「ああ、でも、もしそんなことになったら、
 この世はどうなってしまうだろうか。
 この宝のような法があるのに、
 その法の味わいを醸し出すこともしないなんて……。

 蓮(はす)の花に、青、赤、白の花があるように。
 まだ種のものや、芽吹いてはいるが、未だ水の中のもの。
 水面に顔を出したが、未だ開かぬもの、開いたもの。

 蓮の花のように、
 人の中にも受け入れてくれる人がいるかもしれない。
 そんな人達の法の芽を摘むことにもなってしまう。
 今、ここがその時だ。法を説くべきだろう」

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メッセージ

今回ご紹介したエピソードは
「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」と呼ばれる有名な話です。
元々の話は、人に法を伝えることに躊躇したお釈迦さんの前に、
梵天という神様が現れ、
お釈迦さんに法を説くよう説得するという神秘的な話です。

しかし私は、この話に出てくる梵天を、
お釈迦さんの心理描写として受け取った上で訳しました。
私達に身近な例でいうと
「心の中の天使と悪魔」の表現みたいなものでしょうか……。
実は前回のエピソード 第29話「拠り所」も同じように訳しました。

このように私は、仏典を読む時、
神様、または悪魔の登場するシーン(第4話「苦行を捨てる」)では、
心理描写の一表現として読んでいます。

神様などの登場場面は、
そのまま読むと一見、神秘的な話に聞こえますが、
心理描写として読むことで、
お釈迦さんの内面がとても豊かに表現されているように思います。

そんな本音とも言える内面を踏まえて読むと、前回の話も含め、
「悟りを開いたばかりだというのに、お釈迦さん、悩んでるなぁ」
と、正直思いました。

だからこそ、後代の人達はそんな本音をオブラートに包み込み、
また尊敬の念も感じさせる、神秘的な表現にしたのかもしれません。
そう考えると、とても巧い表現技法のように思います。



さて、前回の第29話「拠り所」と今回の第30話、
この二つのエピソードは、どちらも共に、
お釈迦さんが悟りを開いた直後の出来事として描かれ、
そしてお釈迦さんの内面、その「葛藤」の様子が表現されています。

このように同じような内容が書かれているのは、
これら二つの話がお釈迦さんの体験として、
一つの出来事だからなのだと私は思います。

私自身も、自分の実体験を言葉にする時に、
整理する段階で、上手く表現できない時があります。

本来は一つの出来事ではあるのですが、
そうなった動機やその時の心情など、
様々な思いが入り混じっています。
それを一言一言整理していくと、
なんだか別々の話のようになってしまって、うまくまとまらない。
そんな経験、皆さんはないでしょうか?

葛藤というのは、いろんな思いが湧き起こり、
その思い思いが交錯して、複雑にからまり合っていきます。
その様子は、まるで葛藤の語源である
葛(くず)や藤(ふじ)といった、ツル科の植物のようです。

きっとお釈迦さんも、後に弟子達に自分の経験を伝える時に、
自分の思いを整理する中で、
別々の話として伝わったのかもしれません。

そのように前回と今回の話のつながりを考えながら読むと、
より一層、葛藤の様子が浮かび上がります。

前回では、何か特別な拠り所として、「他者との関わり」を求め、
今回では、法を伝えるのは面倒だと、「他者との関わり」を煩う。
矛盾している所が葛藤らしいですが、やはりこの葛藤は、
「他者との関わり」から生まれています。

よくよく考えてみれば、そもそも悟りを開いた後、
こうして葛藤が生まれてくること自体、興味深い話です。

私は悟り、または「法」と呼ばれるものは、
こういう葛藤、悩みや苦しみといったものを、
スパっと解決してくれるようなものだと漠然と思っていました。
しかし、そんなことはありません。
現にお釈迦さんは悟りを開いた直後ですら、
こうした葛藤を抱えています。

私達は「法を伝える」とか、「悟りを開いた」と言われると、
なんとなく漠然としたイメージで捉えて、
分かったつもりになってしまいますが、
実際の所、それが一体何を指しているのか、見当もつきません。

そういう意味では、今回のエピソードも、
そんな「法」や「悟り」を探る一つの手がかりとなるはずです。

また、だからこそ、お釈迦さんはわざわざ、
「悟りを開いたばかりだというのに、お釈迦さん、悩んでるなぁ」
とも受けたられかねない自分の葛藤、本音を伝えたのかもしれません。

「法」を伝えるということは、
「他者との関わり」がなくては始まりません。
だとすると、この葛藤こそが「法」の伝わり、
その始まりなのかもしれません。

様々な思いのツルが交わり、またそれが他者とのツルとも交わる。
それをスパっとぶった切ることが仏法ではなくて、
そのつながりこそが仏法なのかもしれません。

私自身は、そんな風に「葛藤」を通して読むことで、
そんな「法」の伝わりについても考えさせられました。


2016年11月サイン鳥.gif

最後までお読み頂き、ありがとうございました。