仏教エピソード

第30話「法を伝える」

エピソード(増一阿含経巻第10勧請品第19)

それは、お釈迦さんが悟りを開いてまだ間もない時のことです。お釈迦さんはネーランジャラー河のほとりにある菩提樹の下で坐っていました。
その時、ふとこんな思いが浮かびました。
「私が悟ったこの法は、はっきりとせず、なかなか了解することが難しい。そして気づき知ること難しく、思い量るべきでない。
だったら……、私が人のために法を説いても、誰も信用せず、実践してくれないのではないだろうか。もしそうなったら、ただの骨折り損のくたびれ儲け。
それならいっその事、ただ黙っていたほうがいい。どうして、わざわざ説く必要があるだろうか……」
そう思い至った時、お釈迦さんの心には、まるで天の声のような、こんな気持ちが湧いてきました。
「ああ、でも、もしそんなことになったら、この世はどうなってしまうだろうか。この宝のような法があるのに、その法の味わいを醸し出すこともしないなんて……。
蓮(はす)の花に、青、赤、白の花があるように。まだ種のものや、芽吹いてはいるが、未だ水の中のもの。水面に顔を出したが、未だ開かぬもの、開いたもの。
蓮の花のように、人の中にも受け入れてくれる人がいるかもしれない。そんな人達の法の芽を摘むことにもなってしまう。
今、ここがその時だ。法を説くべきだろう」 
蓮の花

メッセージ

今回ご紹介したエピソードは「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」と呼ばれる有名な話です。
元々の話は、人に法を伝えることに躊躇したお釈迦さんの前に、梵天という神様が現れ、お釈迦さんに法を説くよう説得するという神秘的な話です。
しかし私は、この話に出てくる梵天を、お釈迦さんの心理描写として受け取った上で訳しました。
私達に身近な例でいうと「心の中の天使と悪魔」の表現みたいなものでしょうか……。実は 前回のエピソード 第29話「拠り所」も同じように訳しました。
このように私は、仏典を読む時、神様、または悪魔の登場するシーン( 第4話「苦行を捨てる」)では、心理描写の一表現として読んでいます。
神様などの登場場面は、そのまま読むと一見、神秘的な話に聞こえますが、心理描写として読むことで、お釈迦さんの内面がとても豊かに表現されているように思います。
そんな本音とも言える内面を踏まえて読むと、前回の話も含め、「悟りを開いたばかりだというのに、お釈迦さん、悩んでるなぁ」と、正直思いました。
だからこそ、後代の人達はそんな本音をオブラートに包み込み、また尊敬の念も感じさせる、神秘的な表現にしたのかもしれません。そう考えると、とても巧い表現技法のように思います。
さて、 前回の第29話「拠り所」と今回の第30話、この二つのエピソードは、どちらも共に、お釈迦さんが悟りを開いた直後の出来事として描かれ、そしてお釈迦さんの内面、その「葛藤」の様子が表現されています。
このように同じような内容が書かれているのは、これら二つの話がお釈迦さんの体験として、一つの出来事だからなのだと私は思います。
私自身も、自分の実体験を言葉にする時に、整理する段階で、上手く表現できない時があります。
本来は一つの出来事ではあるのですが、そうなった動機やその時の心情など、様々な思いが入り混じっています。
それを一言一言整理していくと、なんだか別々の話のようになってしまって、うまくまとまらない。そんな経験、皆さんはないでしょうか?
葛藤というのは、いろんな思いが湧き起こり、その思い思いが交錯して、複雑にからまり合っていきます。
その様子は、まるで葛藤の語源である葛(くず)や藤(ふじ)といった、ツル科の植物のようです。
きっとお釈迦さんも、後に弟子達に自分の経験を伝える時に、自分の思いを整理する中で、別々の話として伝わったのかもしれません。
そのように前回と今回の話のつながりを考えながら読むと、より一層、葛藤の様子が浮かび上がります。
前回では、何か特別な拠り所として、「他者との関わり」を求め、今回では、法を伝えるのは面倒だと、「他者との関わり」を煩う。
矛盾している所が葛藤らしいですが、やはりこの葛藤は、「他者との関わり」から生まれています。
よくよく考えてみれば、そもそも悟りを開いた後、こうして葛藤が生まれてくること自体、興味深い話です。
私は悟り、または「法」と呼ばれるものは、こういう葛藤、悩みや苦しみといったものを、スパっと解決してくれるようなものだと漠然と思っていました。
しかし、そんなことはありません。
現にお釈迦さんは悟りを開いた直後ですら、こうした葛藤を抱えています。
私達は「法を伝える」とか、「悟りを開いた」と言われると、なんとなく漠然としたイメージで捉えて、分かったつもりになってしまいますが、実際の所、それが一体何を指しているのか、見当もつきません。
そういう意味では、今回のエピソードも、そんな「法」や「悟り」を探る一つの手がかりとなるはずです。
また、だからこそ、お釈迦さんはわざわざ、「悟りを開いたばかりだというのに、お釈迦さん、悩んでるなぁ」とも受けたられかねない自分の葛藤、本音を伝えたのかもしれません。
「法」を伝えるということは、「他者との関わり」がなくては始まりません。だとすると、この葛藤こそが「法」の伝わり、その始まりなのかもしれません。
様々な思いのツルが交わり、またそれが他者とのツルとも交わる。それをスパっとぶった切ることが仏法ではなくて、そのつながりこそが仏法なのかもしれません。
私自身は、そんな風に「葛藤」を通して読むことで、そんな「法」の伝わりについても考えさせられました。
福田智彰

2016年11月