第4話「苦行を捨てる」

更新日 2017-08-09

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第4話「苦行を捨てる」

出家してから、悟りを開くまでの六年間、
お釈迦さんは、各地を遍歴しました。
ある時には、思想家の元に就き、その教えを学び、
またある時には、山の洞窟にいたこともありました。

そして当時、インドで一般的に考えられていた苦行も実践しました。
しかし、いくら苦行を行っても、悟りを開くことはできず、
ついにはその苦行をやめたのです。

その後、スジャータという村娘から、乳粥をいただき、
体力を回復させたお釈迦さんは、菩提樹の下で悟りを開きました。

これは、お釈迦さんが悟りを開いたばかりの頃、
頭によぎった苦行に対する率直な気持ちを表しているエピソードです。

エピソード(雑阿含経巻第39 1094)

お釈迦さんが悟りを開いてまだ間もない頃、
ネーランジャラー河のほとりにある樹の下に座っていました。
その時お釈迦さんは、ふとこのように思いました。


「あぁ、私はあの苦行を捨てて、ほんとによかったなぁ」


するとお釈迦さんの中で、
もう一つある気持ちが浮かび上がりました。


「人は、苦行することで浄められる。
 それに反して、お前は苦行を捨てたのだ。
 一体何を目指している?
 悟りに至る道から外れ、
 悟りを得たと勘違いしてるのではないか?」


それはまるで、悪魔の囁きのように、
お釈迦さんを不安にさせました。
しかし、お釈迦さんは、このように考えました。


「私は様々な苦行を実践したが、どれも意味が無かった。
 結局役に立たないと知った。
 それはまるで、矢の無い弓を弾いて音だけ出すようなものだ。
 私は仏教の智慧と実践により、
 悟りの道を修めることができたのだ」


すると、お釈迦さんの中に生まれた不安という悪魔は消えていきました。あくまのささやき.jpg

メッセージ

「仏教の修行って厳しいんでしょう?」
「滝に打たれたりもするんですか?」

仏教の修行が話題になると、このような質問をされることがあります。
そんな時、私の脳裏に浮かぶのは、
私が子供の頃に持っていた仏教のイメージです。

子供の頃を思い出してみると、
「仏教は厳しい」いうイメージが、常に頭の中にありました。
特に修行という言葉が出てくると、
滝に打たれたり、火の上を歩いたり、断食したりと、
子供ながらに、そんな苦行のイメージが頭の中に浮かんでいました。

ひょっとしたら皆さんにも漠然と
このようなイメージがあるのではないでしょうか?


実は古代インドでは、苦行が悟りに至る方法として、
ごく一般的に考えられていました。
人間には様々な雑念が起こり、煩悩が生じる。
それは肉体から起こると考えられていました。

肉体の欲望を断じて、耐え難い修行の結果、
精神的にも、人間的にも高まって、悟りを開くことができる。
日本でも、このような考え方を、精神修行として、
心惹かれる人がいると思います。

私自身、「仏道修行=精神修行・苦行」だと、
一般的なイメージとしてずっと持っていたこともあります。

しかし、実際に仏教を学んでみると、
それは大きな誤解だったことに気が付きました。
このエピソードは、そんな子供の頃から当たり前だったイメージを覆すものでした。


このように、自分の先入観、常識が、いつも正しいとは限りません。
それはお釈迦さんにも言えることだったのではないでしょうか?

古代インドにおいて苦行は、半ば常識的に考えられていました。
ということは、古代インドの国に生まれたお釈迦さんは、
苦行の考え方が、当たり前である環境の中で育ったはずです。

ひょっとしたらお釈迦さんも、
子供の頃の私が「仏教修行=苦行」と思っていたように、
「修行=苦行」だと、当たり前に思っていたかもしれません。
だからこそ、苦行を実践したのだとも考えられます。

しかし、自分が当たり前だと思い込んでいるものに対して、
お釈迦さんは、「それが正しい」と安易に結論を出しませんでした。
常識に捉われないということも、また一つ大事な点だと思います。

しかし、常識に捉われないといっても、無視したわけでもありません。
それは、お釈迦さん自ら、苦行を実践したことからもわかります。
また、このエピソードで、苦行という常識を捨てることに対して、
不安を覚える一面を見せていることからも、
常識を頭から否定していない様子が垣間見えます。

自分の導き出した答えが本当に正しいのかどうなのか、
自問自答しているのです。
私はこの姿勢にも共感しました。

例え、他の誰もが「常識だ」と、「当たり前」に思っていようとも、
また自分の中で出した答えが「当然」と、「当たり前」に思おうとも、
その「当たり前」に対し、自問自答する。
しっかりと目を向けることが大事なことだと思うのです。

大抵、人は「当たり前」ができると、
その「当たり前」に対して、考えなくなってしまいます。
そうやって、ちゃんと目を向けないうちに、
忘れてしまったり、気づかなくなってしまうこともあります。
また、「当たり前」すぎて、端(はな)から見ていない、
なんてこともあったりします。

「当たり前」な事に、しっかりと目を開いて見る。
これが本当の修行なのかもしれませんね。

2013年4月サイン鳥.gif

最後までお読み頂き、ありがとうございました。