仏教エピソード

第4話「苦行を捨てる」

出家してから悟りを開くまでの6年間、お釈迦さんは古代インドの各地を遍歴(へんれき)しました。
ある時には、思想家の元に就き、その教えを学びました。またある時には、山の洞窟にいたこともありました。そして、当時インドで一般的に考えられていた苦行も実践しました。
しかし、いくら苦行を行っても悟りに至ることはできず、ついにはその苦行をやめたのです。
その後、スジャータという村娘から乳粥をもらい、体力を回復させたお釈迦さんは、菩提樹の下で悟りを開きました。
これはお釈迦さんが悟りを開いたばかりの頃、ふと頭によぎった「苦行」に対する率直な気持ちを表しているエピソードです。

 エピソード(雑阿含経巻第39-1094「苦行経」)

悟りを開いてまだ間もない頃。お釈迦さんはネーランジャラーと呼ばれる河のほとりにある樹の下で座っていました。
ふとお釈迦さんは、このように思いました。
「あぁ、私はあの苦行を捨ててほんとによかったなぁ」
するとお釈迦さんの中でもう一つ、ある気持ちが浮かび上がってきました。
「人は苦行することで浄められる。それに反してお前は苦行を捨てたのだ。一体何を目指している? 悟りに至る道から外れて悟りを得たと勘違いしているのではないのか?」
その気持ちはまるで悪魔のささやきのように、お釈迦さんを不安にさせました。
しかし、お釈迦さんはこのように考えました。
「私は様々な苦行を実践したが、どれも意味が無かった。結局役に立たないと知ったのだ。それはまるで、矢の無い弓を引いているようなものだ。私は仏教の智慧(ちえ)と実践によって、悟りの道を修めることができたのだ」
すると、お釈迦さんの中に生まれた不安という悪魔は消えてなくなりました。
悪魔のささやき

 メッセージ

「仏教の修行って厳しいんでしょう?」
「滝に打たれたりもするんですか?」
仏教の修行が話題になると、このような質問をされることがあります。
こんな時に私の脳裏に浮かぶのは、私が子供の頃に持っていた仏教のイメージです。
子供の頃を思い出してみると、仏教は厳しいというイメージが常に頭の中にありました。
特に修行という言葉が出てくると、滝に打たれたり、断食したり、子供ながらに苦行のイメージが頭の中に浮かんでいました。
ひょっとしたら皆さんにも漠然とこのようなイメージがあるのではないでしょうか?
実は古代インドでは苦行が悟りに至る方法として、ごく一般的に考えられていました。
人間には様々な雑念が起こり煩悩が生じる。それは肉体から起こると考えられていました。
身体の欲望を断じ、耐え難い修行の結果、精神的にも人間的にも高まり、悟りを開くことができる。日本でもこのような考え方を精神修行として、心惹かれる人がいると思います。
私自身「仏道修行=精神修行・苦行」だと、一般的なイメージとしてずっと持っていたこともあります。
しかし実際に仏教を学んでみると、それは大きな誤解だったことに気が付きました。
このエピソードはそんな子供の頃から当たり前に思っていたイメージを覆すものでした。
このように自分の先入観や常識がいつも正しいとは限りません。
実はそれはお釈迦さんにも言えることだったのではないでしょうか?
古代インドにおいて苦行は、半ば常識的に考えられていました。
そのような環境の中で生まれ育ったお釈迦さんにとって、子供の頃の私が「仏教修行=苦行」と思っていたように、「修行=苦行」と当たり前に思っていたかもしれません。
しかし、自分が当たり前だと思い込んでいるものに対して、お釈迦さんは決して「それが正しい」と安易に結論を出しませんでした。
また常識に捉われないといっても、無視したわけでもありません。それは、お釈迦さん自らが、苦行を実践したことからも明らかです。
更にこのエピソードでは苦行という常識を捨てることに対して、不安を覚える一面を見せていることからも、常識を頭から否定していないことが感じられます。
自分の導き出した答えが本当に正しいことなのかを自問自答しているのです。私はこの姿勢にも共感しました。
例え他の誰もが、「当たり前」に思っていようとも、また自分の中で出てきた答えが「当たり前」に思おうとも、その「当たり前」に対し自問自答する。そして、しっかりと目を向けることが大事なことだと思うのです。
大抵、人は「当たり前」ができると、そこから考えなくなってしまいます。
そして目を向けないうちに忘れてしまったり、気づかなくなってしまうこともあります。
「当たり前」すぎて端(はな)から見ていないなんてこともあるでしょう。
「当たり前」な事にしっかりと目を開いて見る。これが本当の修行なのかもしれませんね。
福田智彰

2013年4月