第5話「食いしん坊な王様」

更新日 2017-08-09

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第5話「食いしん坊な王様」

お釈迦さんと食いしん坊な王様とのお話。
この王様は、古代インド、コーサラ国の王で、
その名をパセーナディと言います。

彼は毎日のように大食いを繰り返し、
その身体は、まんまるに太っていたそうです。
そんな彼に対する食に関するアドバイス、
それが今回紹介するお話です。

エピソード(雑阿含経巻第42 1150)

コーサラ国の首都、シラーヴァスティ。
ここに、パセーナディという一人の王様がいました。
彼はとても食いしん坊で、
毎日毎日たくさんのご飯を食べていました。
その身体は、肥えに肥え、まんまると太っていたそうです。

ある日、お釈迦さんが近くやって来ることを聞いた彼は、
一目、お釈迦さんに会ってみようと思いました。

その日の朝、彼はいつものように、大量の朝ご飯を済ませ、
召使いの少年と共に、お釈迦さんの下に向かいました。

しかし、パンパンに膨らんだ彼の胃と、その丸々とした身体では、
歩くのでさえ一苦労。
お釈迦さんのもとに着く頃には、その息はフゥフゥと苦しそうで、
全身にはダラダラと汗が流れていました。

その様子を遠くから見ていたお釈迦さんは、
彼が近づくなり、すぐにこう言いました。


「しっかりと気をつけて、自分に応じた量を知りなさい。
 また節度をもって食事をとりなさい。
 そうすれば、苦しみは少なくなって、
 安らかに、長く生きることができるでしょう」


それを聞いた王様は、考える所があったのでしょう。
共に来た召使いの少年に、こう頼みました。


「よいか? 
 今、お釈迦さんが言った言葉をそのまま覚えておきなさい。
 その言葉を、私が食事をする時に、毎回唱えておくれ。
 お駄賃もあげるからよろしく頼む」


「かしこまりました! 王様」


そこで少年は、お釈迦さんに頼んで、
一生懸命この言葉を暗記しました。



それからというもの、王様がご飯食べる時には、
いつも召使いの少年が、お釈迦さんの言葉を唱えました。
毎回毎回、この言葉を聞くたびに、
王様の頭には、お釈迦さんとのやりとりが思い浮かびます。

するとどうでしょう。
日に日に、王様の食事の量が、減っていったのです。
やがて、王様の身体にもある変化が現れました。

身体は徐々に痩せていきました。
身体も健やかになってきました。
容姿も端麗になっていきました。

王様は、大変喜んで、お釈迦さんがいるであろう方角に向かって、
手を合わせて、こう言ったそうです。


「お釈迦さんは、私に二つのご利益(りやく)をお恵み下さった!
 私はあなたのおかげで、現在のご利益(元気で容姿端麗な身体)
 未来のご利益(長寿と健康)を手に入れた!」
食いしん坊な王様.jpgと。

メッセージ

お釈迦さんの時代から、僧侶がご飯を食べる時に用いる器を、
応量器日本曹洞宗で使われる応量器「応量器(パートラ)」と言います。
文字を分解すると、「適応を量る器」。

まさしくお釈迦さんの言葉にあるように「自分に応じた量を知る」ための器です。

曹洞宗の修行道場では食事の際、応量器を用い、
細かな作法に基づいて食事をします。
おかわり等の作法もあるにはあるのですが、
必然的に一食の量はだいたい決まってきます。

しかし、当時私は、「応量器」の意味すら考えもしませんでした。

それまでの人生の中で、
食べ物を当たり前のように食べていた私にとって、
応量器を使った道場の食事はとても物足りないものでした。

そこで私は、なんとかしてこの物足りなさを満たそうと考えました。
実際に裏で余っていたご飯を食べたりしていました。

ところがある日、私は自分の足に違和感を覚えました。
その正体は、現代ではあまり聞くことはありませんが、
「脚気」という病気でした。

道場の決まり通りしていれば、恐らく問題なかったはずですが、
食欲に負け、我慢できずに白米を食べ過ぎたのが、原因でした。
私はこの時初めて、食欲の恐ろしさを実感することになりました。

今思えば、食欲に翻弄される私の姿は、
この話に登場する、まんまるに太った国王の姿と妙に重なります。

お釈迦さんの国王に対するアドバイスは、
そのまんま私に対するアドバイスでした。



「応量器」の示すところも、このエピソードの示すところも、
「自らに応じた量を知る」ということです。

適応とは、過不足なく、その場の状況や条件に当てはまることです。
ここで思い起こすのが、「中道」の教えです。
食べるということも、
「中道」の具体的な実践と繋がっているわけです。

もちろん食べ過ぎは私達の身体に、様々な悪影響を与えます。
しかし私達は食べなければ生きていけません。

「食べる」ということは、「生きる」ということであり、
「どう食べるか」は「どう生きるか」ということに結びつきます。

それだけ食べるということは、
私達の生き方を表すほどの影響力があるのだと思います。

このエピソードは修行が特別なものではなく、
むしろ私達の身近な出来事が、仏教の実践と結びついていることを示すものだと思います。

私にとっては実体験と結びつきながら、
食に対して考えるきっかけを与えてくれました。

2013年5月サイン鳥.gif

最後までお読み頂き、ありがとうございました。