仏教エピソード

第6話「ソーナさんの琴」

今回の登場人物は、お釈迦さんとソーナさんです。
お釈迦さんの弟子になる前のソーナさんは資産家の息子で、琴を弾くのが大変上手だったそうです。
お釈迦さんは、彼に馴染みの深い琴を用いて法を説きました。

エピソード雑阿含経巻第9-254「二十億耳経」)

お釈迦さんがラージャグリハの竹林精舎にいた時のことです。
そこから近くにある霊鷲山の山中では、ソーナさんがいつも精進して修行に励んでいました。その意気込みは熱心以上に激しいものでした。
しかし、どれだけ懸命に取り組んでも悟りに至れるような気配はありません。彼は一人静かに地面に座り込みました。
「お釈迦さんの弟子の中でも、私は五本の指に入るほど懸命に、いや、一番といっても過言ではないぐらい熱心に修行に取り組んでいる。しかし未だに欲望は無くならないし、悟りに至ることができないではないか……。
私はこれでも資産家の息子で多くの財産がある。ここでずっと修行を続けるより、いっその事、家に帰って気ままな生活をしていたほうがいいんではないだろうか?」 
そんな彼の心の叫びは、いつしかお釈迦さんの耳にも入りました。そこでお釈迦さんは彼を呼び寄せることにしました。
「ソーナ。最近あなたはこの道を捨てて、元の生活に戻りたいと思っているらしいですね?」
「え!? 何故その事を知っていらっしゃるんですか?」
始めは師の言葉に驚愕した彼ですが、正直に胸の内を明かしました。お釈迦さんは、彼の話を聞き終わると、このように言いました。
「そうですか……ソーナ。では今から私はあなたに問いましょう。あなたが正直に思うように答えてみなさい」
そう言うと、お釈迦さんは、彼に対してこのような問いかけをしました。
「ソーナ。あなたは家にいた頃、琴を弾くのがとても上手だったらしいですね?」
「その通りです」
「琴を弾く時、弦(げん)が硬いと良い音は出ますか?」
「いいえ。良い音は出ません」
「では、弦が緩いと良い音がなるんですね?」
「いや。単に緩くすれば良いというものでもありません」
「では、一体どうしたら良い音がなるというんだね?」
「あまり緩めすぎてもいけません。張りすぎてもいけません。強すぎず、弱すぎず、琴と弦の具合を見て、しっかり調整しなければ本当に良い音はでません」
そこでお釈迦さんは、にこりと笑みを浮かべました。
「まさしくあなたが今言ったように、ソーナ。精進するのも張りつめすぎると、気持ちが高ぶってしまいます。また反対に、緩みすぎても人を怠惰に貶(おとし)めるのですよ」
その言葉を聞いたソーナさんも笑みを浮かべて喜び、この琴の喩えの教えをしっかりと受けとめました。 
琴

メッセージ

前回に引き続き今回も、「中道」がテーマです。
実はこの教えは、お釈迦さん自身の歩んできた実体験とも重なっています。
第3話「お釈迦さんの青年時代」での、王子としての生活は何不自由のない裕福な生活でした。しかしそれでも、お釈迦さんは苦しみに出会い苦悩します。
またそれとは反対に、 第4話「苦行を捨てる」での苦行は、自らを煩い苦しめる生活でした。しかし、結局それは何の解決にはならず、苦しみそのものでした。
そこでお釈迦さんは自らの経験を基に、二つの極端な行いに偏らない「中道」を説きました。
単純に考えれば「真ん中の道を歩めばいい」という解釈をしてしまいますが、決してどっちつかずの中間という意味ではありません。この教えは、考えれば考えるほど奥の深いものなのです。
そのヒントがこのエピソードの中に隠されていました。
今回の話の中で、琴という楽器が例として挙げられました。
弦の張りは弱すぎず強すぎず、しっかりと調整する。現在の言葉で言えばチューニングです。
正直、私には音楽の知識はほとんどありませんが、私の弟が学生の頃、トランペットを演奏していたこともあり、オーケストラを観に行くなど、音楽と触れる機会が少しはありました。
オーケストラを観に行くと、指揮者が登場する前に必ず「ビー」という音がなり、全員が楽器を鳴らします。私はなぜこんなことをするのか、不思議でたまりませんでした。
単に楽器が壊れずに音がでるか確認している程度にしか思っていませんでしたが、ここで行っているのがチューニングです。
チューニングは、楽器を演奏する前に無くてはならないものです。
楽器が出す音程にはバラツキがあり、何かを基準にして合わせる必要があります。
一般的にオーケストラでは、オーボエという楽器を持っている人が音を出します。その音に合わせて、他の楽器が次々に音を合わせていくようです。
しかし、ステージ上では照明等の影響で温度や湿度が変化します。それによって楽器の音が微妙に変わるため、必ず演奏する場所で調整をする必要があります。
またオーケストラによって、音程の基準が異なるそうです。その場のコンディションや状況に応じて、高くしたり、低くしたり、その基準にも幅があるのです。
こうしてみると、チューニングには絶対に揺るがない基準があるというわけではなく、ある程度の幅があることに気がつきます。
仏教の「中道」にも、その幅がなくてはなりません。
よって両極端の真ん中、どっちつかずの中間と、一本の線のように限定的に考えるのではなく、もっと右にも左にも広がる、幅広い道と考えたほうがいいでしょう。
私の場合それを考える上で、琴以上に良い例えになったのが「川」でした。
私のお寺の近くには、川が流れています。ゴミ袋や木の破片などが流れているのをよく目にしますが、それらは皆、流れの弱い所に集まっていました。
そこから川の流れに注目してみると、中央の方は水が勢いよく流れているのに対し、端っこの方は水の勢いは弱く、水がクルクルと回っています。
私にはそれが、水がどこにいっていいのか、迷っているように感じました。
また、川の水の勢いがスムーズなところは何も中央部分とは限りません。
カーブになれば、右側、左側、どちらかに寄ったり、川の真ん中に岩があれば別れたり、絶えず変化します。 
川には水の量に応じて、その川幅があります。
私には絶えず変化する水の流れは、中道の現実的な形を表しているように見えました。
仏教の教えは、仏典を開かずとも、楽器や音楽、川など、私達の身の回りのことから、伝えてくれているものがたくさんあるようです。
福田智彰

2013年6月