エピソード(雑阿含経第14巻-345)
お釈迦さんがラージャグリハの竹林精舎にいた時のことです。
お釈迦さんが弟子のサーリプッタさんにこのような問いかけをしました。
「以前、アジタさんという参学の者が尋ねてきたことがありました。その内容はこうです。
『この世には真実を究め明らめた人がいます。また学んでいるところの人もいます。また関心を抱かない人もいます。
お尋ねしますが、彼らの振舞いについて教えてください。その違いとは何なのでしょうか?』と問われました。
サーリプッタさん、一体何をもって学んでいるところの人というのでしょうか? 一体何をもって真実を究め明らめた人というのでしょうか?」
サーリプッタさんは黙ったままでした。お釈迦さんは二度、三度と、同じ質問をしましたが、サーリプッタさんは黙ったままだったのです。
お釈迦さんは言いました。
「サーリプッタさん。あなたは是を事実であると見ますか?」
サーリプッタさんは答えました。
「真に事実です。師匠、あなたの弟子にして真実を見る者は、苦があるという事実を観ます。この苦によって厭を生じます。
厭とは、嫌に感じ、避けよう、遠ざけようとすることです。嫌だと感じる、こうした感情は自ずと湧き上がってきます。
嫌なら、避けたい、遠ざけたいと欲します。そういった欲望が生じます。
もちろん、反対に、好ましい、好きだと感じる、感情もあります。こうした感情も自ずと湧き上がってきます。
そして、好ましいものであれば、手に入れたい、近づけたいと求め欲します。そういった欲望が生じます。
師匠、あなたの弟子にして真実を見る者は、欲望があるという事実を観ます。
観察することは、距離を置くこと。なぜなら観察する対象に飲み込まれてしまったら、観察のしようがありませんから。(※1)
そして、解決へと向かう変化が生じます。
例えば、食欲のように湧き上がってきても、食の故に湧き上がってくることを知ります。
厭を生じ、欲を離れ、変化へと向かえば、食のあり方そのものが変化するでしょう。
是の真に事実である変化をよく観察し、よく知って、その人が厭を生じ、欲を離れ、変化へと向かうこと。これを “学ぶ” というのでしょう」
また、サーリプッタさんは続けて残りの質問にも答えました。
「また次の質問に関しても、『サーリプッタさん。あなたは是を事実であると見ますか?』と問われれば、私は真に事実だと答えます。
師匠、あなたの弟子にして真実を見る者は、厭を生じ、欲を離れ、変化し、煩悩に飲まれることなく、心よく解きほどけ、落ち着いています。
これは食欲のように湧き上がってくる……、ならばもし是の真実が即ち、解決へと向かう変化につながる菩提と知ったならば……。
苦があるという真実。
その苦より厭を生じる。厭、嫌といった感情や遠ざけたいという欲望が生じる。楽よりは好いといった感情や近づけたいといった欲望が生じる。これら欲望は、煩悩とも呼ばれる。
欲望・煩悩があるという真実。
これら煩悩や苦と呼ばれる真実を観察することが、解決へと向かう変化の道、菩提へとつながる。
煩悩や苦が即ち菩提と知ったならば、この菩提において、厭を生じ、欲を離れ、変化し、煩悩に飲まれることなく、心よく解きほどけ、落ち着くことでしょう。
是が真実を究め明らめることです」
サーリプッタさんの言葉を聞いて、お釈迦さんは言いました。
「その通り、その通りです。あなたの説くまんまです。真実において、厭を生じ、欲を離れ、変化する。是を真実を究め明らめることというのです」
そう言い残し、お釈迦さんは、竹林精舎の建物の中へと入り、坐禅を始めました。
その場からお釈迦さんが去った後、サーリプッタさんは周りにいた他の弟子達にこう語りました。
「皆さん……、私は初め、師匠の問いに対して、言葉にすることができませんでした。だから黙っていました。
しかし、師匠は咄嗟に機転を利かした問いを考え出してくれました! そして私はあのような表現をもって、説き明かすことができました!!!
たとえ、師匠がまる一日、いや七日間だろうと、他の言葉で、また異なった視点から、是のことについて問われれば、私はずっと語ることができるでしょう。
更には私も、七日間、他の言葉で、また異なった視点から、これを解説するでしょう」
それからまた、とある時のことです。この話を聞いた別の弟子の一人がお釈迦さんの所へやってきました。
彼はお釈迦さんに尋ねました。
「師匠、サーリプッタさんのことですが、未だかつて聞いたことがないような奇特なことを言っていました。
皆の目で雄弁にこう語っていました。
『私は初め、師匠の問いについて、全く言葉になりませんでした。二度、三度と問われても、答えることはありませんでした。
そこで師匠は機転を利かせた問いを考え出してくれました。そして、私は、解き明かしました。
たとえ、師匠がまる一日、いや一週間だろうと、他の言葉で、また異なった視点から、このことについて問われれば、私は、ずっと語ることができるでしょう。
更には、私は、1週間、他の言葉で、異なった視点から、これを解説するでしょう』と言っていました」
それを聞き、お釈迦さんは彼にこう言いました。
「サーリプッタさんは、まる一日、1週間であろうとも、実によく、言葉を変え、視点を変え、味を変え、是を解説しますよ。
なぜなら、サーリプッタさんは、よく真実に入り、歩んでいるからです」
メッセージ
煩悩即菩提という言葉があります。「煩悩=菩提」ということですが、禅宗においてはよく見かける言葉です。
この言葉が使われている書物は、私が知る限りでは「六祖壇経」が最も古いものです。
六祖壇経は、中国禅宗の六祖である有名な禅僧、慧能禅師の説法を中心に、問答(問いと答えのやりとり)など集録された経典です。
ならば、「煩悩即菩提」は禅の中だけで使われていると誤解されるかもしれませんが、そうではありません。
禅語として挙げられる言葉を紐解けば、今回の煩悩即菩提を題材にしているこのエピソードのように、お釈迦さんの時代へと繋がっています。
お経には、文の不足も多いので、こうして補足していくわけですが、こういった補足部分は、別の機会にお釈迦さんが語っていたり、あるいは正法眼蔵(道元禅師著)など、他の経典や書物などで書かれていたりします。
例えば、(※1)は以下の所から引用してきました。
こうしたことが繋がって、そして、こうして形となっていきます。
別の事を知れば、また、違った視点、違った読み方が見えてくるかもしれません。読む度に、また違った風味を感じさせてくれる。
まさに今回のエピソードとも通じる所ですね。
煩悩=悟りの道
さて、煩悩といえば、菩提(悟りの道)とは、正反対のものであると、誰もが漠然と考えているでしょう。
しかし、今回のエピソードのように、順を追って観ていくと、そうとも言い切れない事が見えてきます。
諦=あきらかにすること
苦しみがある。これは紛れもない事実・真実です。
欲望・煩悩がある。これも紛れもない事実・真実です。
これらは四諦と呼ばれる仏教の基本的な教えでも言われています。
四諦とは、簡単に言えば、四つの「諦」です。
この「諦」という言葉は、真実を解明することを意味します。
諦めるというと、現在では一般的に、ギブアップすることと捉えられてしまっています。
しかし、同じ発音をする言葉に「明らめる」言葉があるように、本来「諦める」という言葉は、明らかにする、解明するという意味を持ちます。
仏教では、真実を解明するという意味を用います。
「苦しみがある」という真実を苦諦といい、「煩悩・欲望がある」という真実を集諦といいます。
苦や欲望・煩悩は無くなるのか?
ところで、苦しみや煩悩といったものがあるなら、それを解決するにはどうすればいいと思うでしょうか?
「苦しいのであれば、煩悩があるのであれば、そんなものは無くしてしまえばいい」
苦しみや煩悩さえ無くなれば、問題は解決すると、漠然と、半ば無意識のうちに、思ってしまうのではないでしょうか。
しかし「苦しみがある」というのは真実であり、「煩悩・欲望がある」というのは真実です。
仮に本当に無くなれば、問題は解決されるでしょうが、「苦しみがある」「煩悩・欲望がある」ということが真実ならば、それは決して無くすことはできません。無かったことにはできません。
ならば、どうすればいいのでしょうか?
諦める。学ぶことは解決へと向かう変化
ここで「諦める=make clear」人もいれば、「諦める=give up」人もいたのでしょう。
学び解明した人、解明しようと学ぶ者、興味を抱かず解明することを断念した人。
この振舞いの違いが「諦」という言葉の意味を二分してしまった原因だったのかもしれません。
苦しみや湧き上がってくる欲望・煩悩をよく観察し、解明しようとすることが、学ぶということが、解決へと向かう変化となる。
そうして、苦しみに、煩悩にしっかりと向き合うことで、自ずと答えが出てくることなのかもしれません。
この解決へと向かう変化が三つ目の諦、そして、変化への道を歩むことが四つ目の諦です。
これら四諦の教えは、お釈迦さんが初めて教えが伝わった、最初の説法ですが、今回のエピソードにおいて、サーリプッタさんがまた別の切り口から語ってくれています。
苦諦、苦しみがあるという真実を観る。
集諦、欲望・煩悩があるという真実を観る。
滅諦、学び、解決へと向かう変化があるという真実を観る。
道諦、学び観た変化への道という真実を歩む。
煩悩を無くして、菩提を得るわけでなく、煩悩を観て、菩提を歩む。
しっかりとサーリプッタさんが学びの道を歩んでいると思っていたからこそ、お釈迦さんは最後に、サーリプッタさんは、よく真実に入っているという言葉を使ったのかもしれませんね。
補足
この解決へと向かう変化というのが、四諦の三つ目にあたります。
滅諦と言いますが、これまた誤解の多い言葉です。
通常、苦しみや煩悩さえ無くなれば問題は解決すると、漠然と、半ば無意識のうちに思ってしまう為、どうしても「滅」を「無くす」ことと捉えられてしまいます。
しかし、しかし「苦しみがある」というのは真実であり、「煩悩・欲望がある」というのは真実なので、これは無くなることはありません。
少なくとも、四諦の教えの上で、この苦諦・集諦として、真実として取り上げられているため、この真実は無いと否定することは、どうしても辻褄が合いません。
そこで、「滅」という言葉を調べてみると、この滅という言葉にも、様々な意味があります。
今回のエピソードの翻訳に関しては、この滅という言葉を、以下のエピソードの解釈を引用して、「変化」としました。
また、滅という言葉には、「囲む」という意味などもあります。
四諦に関しては、伊丹禅教室の法話でも行っています。詳細はこちらで