エピソード(雑阿含経巻第33‐922「鞭影経」、正法眼蔵「四馬」)
ある時、お釈迦さんが弟子達に、このような話をしました。
「今日は四種の馬についての話をしましょう。
まず一頭目。この馬は鞭(むち)の影を見ると、それに察し驚きます。そして乗り手の動きをしっかり観察し、乗り手の意のままに動きます。
次に二頭目。この馬は鞭が毛に触れると、それに察し驚きます。そして乗り手の動きをしっかり観察し、乗り手の意のままに動きます。
次に三頭目。この馬は鞭が肉に触れると、それに察し驚きます。そして乗り手の動きをしっかり観察し、乗り手の意のままに動きます。
最後に四頭目。この馬は鞭が骨にまで響いて、そうして初めて気がつきます。そして乗り手の動きをしっかり観察し、乗り手の意のままに動きます」
お釈迦さんの話は続きました。
「一頭目の馬はこのような人の事を指しています。別の村の人の病気や困苦、または死を聞いて、それらに察し驚く。それが嫌だという気持ちが生じてくる。その恐怖からその人は動き出します。
そしてしっかりと観察し、どうやったらその苦しみを解決できるのかを考えます。そうやって自ら調えるわけです。
二頭目の馬はこのような人の事を指します。同じ村の人の病気や困苦、または死を聞いて、それらに察し驚く。それが嫌だという気持ちが生じてくる。その恐怖からその人は動き出します。
そして。しっかりと観察し、どうやったらその苦しみを解決できるのかを考えます。そうやって自ら調えるわけです。
三頭目の馬はこのような人の事を指します。自分と親しい人の病気や困苦、または死を見て、それらに察し驚く。それが嫌だという気持ちが生じてくる。その恐怖からその人は動き出します。
そしてしっかりと観察し、どうやったらその苦しみを解決できるのか、考えます。そうやって自ら調えるわけです。
四頭目の馬は、このような人の事を指します。自分の身に病気や困苦、または死の際を接し、それらに察し驚く。それが嫌だという気持ちが生じてくる。その恐怖からその人は動き出します。
そしてしっかりと観察し、どうやったらその苦しみを解決できるのか考えます。そうやって自ら調えるわけです」
メッセージ
「この四頭のうち、どの馬が一番良い馬なのか?」
このエピソードを読んで、そう考えなかったでしょうか?
私は初めそのように考えていました。
鞭が打たれる前に気づく。それが一番優秀。毛に触れて気づく。それが次点。肉に触れて気づく。それが三位。骨に響いて、ようやく気づく。それが四位。
しかしそのような理解はどうやら私の勘違いだったようです。
私達はわりと無意識の内に物事を比べてしまいます。しかしこの話は比べることが重要ではありません。
なぜならこの四頭の馬は、四頭の「良馬」として原典には描かれています。
どれも良馬。良い馬なのです。
更に言えば骨に響くということを理解する。それは肉、毛にも触れていることを理解するのと同じです。
なぜなら肉や毛に触れなければ、骨には届かないからです。
同じ意味で、身体に当たる前に鞭が振るわれている事も理解しているはずです。
鞭を見るだけでも理解とする。それは結局、身体に打たれれば肉や毛がどうなるかを理解している。骨まで届く痛みを鞭が振るわれていることから理解しているはずです。
鞭が触れようが触れまいが、毛に当たろうが、肉にあたろうが、骨に響こうが。本当に理解するということは結局、全てに通じていないと理解できないわけです。
ですからこのエピソードは優劣を決めることが大事ではありません。
四つの馬ともが鞭の痛みに気づいた。その事実こそが私は大事なことだと思うのです。
そして鞭の痛みを人に喩えると、それは「死」や「病」や「老」の苦しみです。
「その苦しみに気づくことが大事なのだ」と今ではそのように私は理解しています。
その苦しみに気づく。そしてその苦しみ、恐怖からその人は動き出す。しっかりと観察し、どうやったらその苦しみを解決できるのか考える。
これが実は仏道、仏の道への第一歩なのかもしれません。
思えば私自身も……。本当に「死」ってあるのだと心の底から思ったのは高校生の時。祖母の死がきっかけでした。
当時、私は部活動の事で悩んでいて祖母の家へよく話にいっていました。話す場所は部屋のベッドの上。しかし私は祖母の容態なんて全く気にしていませんでした。
またいつか良くなっていつも通りの生活をする。風邪のようなものだと思っていたのでしょうね。
少しずつベッドから出てくることが少なくなる。病室で会うことも多くなってくる。そんな姿をみているのに、今思えば当然なのに……、当時の私は気づきません。
死ぬとは思っていませんでした。
しかし、親しい人が亡くなってはじめて、本当に「死」があると実感しました。「死」は身近にあるものなのだと実感しました。「死」は、この身に降りかかってくるものなのだと実感しました。
ただ頭で分かったわけじゃありません。実感した。骨身に染みたのです。
そう……、私もいつか死ぬ。
だから同時に「後悔なく生きなさい」と最期に教えられたような気がしました。私はこの時初めて、生きる上で、死を学ぶ大切さを学びました。
仏教、特に禅では、必ず「生死(しょうじ)」と言います。
一生と「生」だけでは言いません。「生」と「死」は切っても切り離せない。「死」を考えるということは、仏教において避けては通れない道です。
私達は「生」まれたからには、「生」きているからには、必ず「死」にます。そして「死」ぬという事実は、必ず「生」きている事実があるから起ります。
「生」きるってことを考える時、かならず「死」も考えます。「生死」は切っても切り離せない、必ず共にあります。
片方だけに囚われるのは、表裏の片面だけに囚われるようなもの。
生きているのが当たり前と思って、死を忘れてしまう。それでは、生きているありがたみを忘れてしまいます。
逆に死に囚われて、今、生きているというこの事実を忘れてしまう。それでは死の恐怖に囚われてしまいます。はたまた、死そのものに逃げ込んだりしてしまうこともあるかもしれません。
生と死、これはきっても切り離せない。だから「生死」というのだと思います。「生死事大」( 仏教エピソード第31話)というのだと思います。
「生」を考える上で、「死」は絶対に避けては通れない。これが私がこのエピソードから受けたメッセージです。