仏教エピソード

仏教エピソードでは、お経の一節(エピソード)を抜粋し、翻訳しています。そこに自分自身の考えや感想など(メッセージ)を交えています。

翻訳にあたっては、心掛けていることが二つ。まず仏教の知識が無くても読めること。そして、翻訳する漢文のお経、そこに書かれている漢字の意味を大きく外れないことです。

仏教の知識が無くても読めるように、仏教用語を極力使わず原典のお経を訳しました。気軽に読んでみてください。

一覧

仏教エピソード㊻「わたし」
自己わたしはわたしではない、わたしの所有物ものでない。重病を患ったケーマが看病してくれるダーサカさんに伝えたかったこととは?
仏教エピソード㊺「煩悩は悟りの道」
煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)は禅宗においてはよく見かける言葉です。禅語として挙げられる言葉を紐解けば、このエピソードのように、お釈迦さんの時代へと繋がっています。
仏教エピソード㊹「キンスカの木と悟りと城と」
「如何に悟るのか」は「キンスカの木とはどんな木なのか」と尋ねるようなものである。
仏教エピソード㊸「叱る事と怒る事」
叱る事と怒る事、その違いは何なのでしょうか? お釈迦さんも叱る時は叱ります。時には少し言い過ぎてしまうこともありました。今回は、お釈迦さんの「叱る」が見えるエピソードです。
仏教エピソード㊷「勝友」
モッガラーナさん、神通力について親友に語るエピソード。モッガラーナさんの神通力は、人々をどこか安心させる、巧みな表現力。親友のサーリプッタさんには「神通力でお釈迦さんと会っているわけではない」と語っています。
神通力で有名なモッガラーナさんの人物像
神通第一とも称されるモッガラーナさん。目連(もくれん)とも呼ばれる事が多いですが、経典では、目犍連(もくけんれん)と書かれています。神通力についても触れます。
仏教エピソード㊶「悟りはあるの? 悟りはないの?」
「悟りはあるといえばあるのですよ。そして、ないと言えばないんだよ」この話を読んだとき、そんな老師の言葉を思い出しました。
智慧のサーリプッタさんの人物像
サーリプッタさんは、お釈迦さんの弟子の中でも、智慧第一(ちえだいいち)と称される有名な人物です。シャーリプトラとも呼ばれ、漢訳では舎利弗(しゃりほつ)または舎利子(しゃりし)とも表記されています。
お釈迦さんの生涯④「入滅拘稀羅」
仏生迦毘羅(ぶっしょうかびら)成道摩掲陀(じょうどうまかだ)説法波羅奈(せっぽうはらな)入滅拘稀羅(にゅうめつくちら)。この偈文を元に、お釈迦さんの生涯についてまとめてみました。
お釈迦さんの生涯③「説法波羅奈」
仏生迦毘羅(ぶっしょうかびら)成道摩掲陀(じょうどうまかだ)説法波羅奈(せっぽうはらな)入滅拘稀羅(にゅうめつくちら)。この偈文を元に、お釈迦さんの生涯についてまとめてみました。
お釈迦さんの生涯②「成道摩掲陀」
仏生迦毘羅(ぶっしょうかびら)成道摩掲陀(じょうどうまかだ)説法波羅奈(せっぽうはらな)入滅拘稀羅(にゅうめつくちら)。この偈文を元に、お釈迦さんの生涯についてまとめてみました。
お釈迦さんの生涯①「仏生迦毘羅」
仏生迦毘羅(ぶっしょうかびら)成道摩掲陀(じょうどうまかだ)説法波羅奈(せっぽうはらな)入滅拘稀羅(にゅうめつくちら)。この偈文を元に、お釈迦さんの生涯についてまとめてみました。
仏教エピソード㊵「滅について」
「滅」という言葉は、語源を調べると、実に様々な意味が込められています。今回のエピソードでは、「滅」について、お釈迦さんの弟子であるサーリプッタさんとアナンダさんが語り合っています。
仏教エピソード㊴「壊れるという法は壊れない」
もし、矛盾しないのなら、それは真実ではない
仏教エピソード㊳「自己を見つめる」
非我や無我は、仏教でよく出てくる言葉の一つ、そして誤解されやすい言葉です。そもそも、我という言葉自体も、日本語と仏教の間に齟齬があります。
仏教エピソード㊲「観察」
見ようとすれば見えなくなることもあります。見ていると思うからこそ、見えなくなることもあります。見えることに限界だってあります。「見」にも実はたくさんあって、それを知るにも、じっくり観察しなければなりません。
仏教エピソード㊱「やってみえる」(南獄磨甎の話)
南獄磨甎×坐禅×旅。今回のエピソードは有名な禅問答です。師である南獄懐譲(なんがくえじょう)さんと弟子の馬祖道一(ばそどういつ)さんの師弟間の問答となります。この話は『景徳伝灯録』にあるのですが、今回は道元禅師さんの書物を基に訳しました。
仏教エピソード㉟「大事な当たり前」
諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教。七仏通戒偈は、お釈迦さんだけではなく、仏教で代々共通して保たれ、仏教の思想が要約された詩偈とも言われています。良い事、悪い事とは何なのでしょうか。
仏教エピソード㉞「子供を亡くした母親キサーゴータミー」
このキサーゴータミーの話には学ぶべきところがたくさんあります。その中で特に私が感銘を受けたことが、当たり前のことに気づく事で彼女が救われたことです。当たり前のことに気づく大切さを教えてくれます。
仏教エピソード㉝「四の馬」
四種の馬。「この四頭のうち、どの馬が一番良い馬なのか?」このエピソードを読んで、そう考えなかったでしょうか。しかし、そのような理解は、どうやら勘違いだったようです。何にせよ、仏道ちかきものは、かならずこの話をきくことがあるはずです。
仏教エピソード㉜「最初の説法」
実はお釈迦さんの最初の最初の説法は、大失敗に終わりました。私も最初の説法と言えば、サールナートでの説法だと思っていましたが、成功の裏にはこのような失敗があったわけです。
仏教エピソード㉛「最期の言葉」
「白大衆、生死事大、無常迅速、各宜醒覚、慎勿放逸」とお寺の木版に書かれています。これはお釈迦さんの最期の言葉。木版が鳴る音を聞くと、私の頭の中には、お釈迦さんの最期の言葉が思い浮かぶことがあります。
仏教エピソード㉚「法を伝える」
悟りを開いてまだ間もない頃、お釈迦さんはある葛藤を抱いていました。悟りを開いても葛藤しては悩むお釈迦さん。この葛藤こそが、法の伝わり、その始まりなのではないでしょうか。
仏教エピソード㉙「拠り所」
悟りを開いてまだ間もない頃、お釈迦さんはある葛藤を抱いていました。それは拠り所について。これも法の探る一つの手がかりではないでしょうか。
仏教エピソード㉘「琴の音色」
無我というのは「我が無い」のではありません。「我が無い」だと、琴の音色を欲した王様のようなことになってしまうかもしれません。無我というのは「我で無い」のです。それは自己をみつめて、見えてくること。
仏教エピソード㉗「賢い兄と愚かな弟」
仏教の智慧は、知恵ではありません。智慧には知恵にない意味が含まれています。知識を詰め込むだけでなく、実践を通して得ていく理解があるからこその智慧。分解すれば彗と心となる慧という字にもそのことが示されています。
仏教エピソード㉖「あらゆるものは変わりゆく」
春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえですずしかりけり。あらゆるものは変わりゆく、この世に常なるものはなし。
仏教エピソード㉕「犀の角のように」
自分はただ独りだけ。他に変わるものなどない。それでいて、自分は決して独りでいるわけではない。犀の角のように。角と身体が一つの如く。自己と他者が一つの如く。
仏教エピソード㉔「国王の疑問」
私は善き友となろう。そして善き人々に取り囲まれるようになろう。それには何をすれば良いのだろうか。それには不放逸、つまり怠らないことが肝心です。小さなことも、大きなことに繋がっていきます。自分の小さな意志が、大きな流れに繋がっていきます。
仏教エピソードで用いた経典について
阿含経とニカーヤ、ウダーナヴァルガ、法句経、正法眼蔵随聞記、スッタニパータ、涅槃経についての簡単な説明
仏教エピソード㉓「縁りて起こる」
仏教で用いられる「縁起」の本来の意味。当たり前の事なんだけど、当たり前なことほど気づかないものなのかもしれません。そしてその当たり前の中にこそ有り難い事、大切なことが隠されているのでしょう。そう思える根拠がこの話の中にあります。
仏教エピソード㉒「善き友」
善き友を持ち、良き仲間がいるということは、修行の半ばではなく、その全てである。善い知識とは、言葉や文字で表された単なる「事柄」ではなく、本当に善い知識とはきっと「人」そのものにあるのでしょう。
仏教エピソード㉑「許す」
心が黒いだけの人間もいなければ、白いだけの人間もいない。争いを起こすのは何も人間の黒さだけとは限りません。人間の白さもまた争いを生む原因となりうること教えてくれました。
お釈迦さん ゆかりの地
経典に出てくる地名を地図にしました。
仏教エピソード⑳「自他を想う」
「結局自分のことが一番可愛い。そんなことで私達はいいのだろうか?」昔もそうやって真剣に考える人たちがいました。自分を想う事、そして他人を想う事。交わらない二つの線が、たった一つの視点を加えるだけで見事に一つとなります。
仏教エピソード⑲「愛と苦しみ」
出会いだけの人生はありません。いつか別れの時がきます。別れだけの人生はありません。別れたものには必ず出会いがあったからです。一方が照らされている時は、一方は暗くなります。しかしそれは見えないだけで、決して無いわけではありません。
仏教エピソード⑱「学びの秘訣」
信じるだけでは進歩は無く、疑うだけでは前進できません。信じるか、疑うか、そんなことはどっちでもいい。疑問と答えは表裏一体。信じることも疑うことも学ぶ上では欠かすことができません。学ぶ者の心掛け。これが意外と難しい。
仏教エピソード⑰「筏の如く」
「筏を担ぐ人?」「そんな奴いるわけがない!」いやいや、誰もがやってしまいがちなんです。筏から学ぶ仏法。たとえ大事な教えでも必要とあらば捨てなさい。仏教ならではのエピソードをご紹介します。
仏教エピソード⑯「愚か」
「愚か」とは何か? 私がこのエピソードで紹介している最初の言葉に感銘を受けたのは、海外での生活に馴染めず、困っていた時でした。「自分は正しい。間違っていない」自分もそう決めつけて、苦しい思いをしたのを今でも覚えています。
仏教エピソード⑮「怒りの炎」
炎と炎とが交われば、結局は大きくなってしまうだけ。怒りの炎が大きくなればなるほど、自分を見失ってしまいます。それを防ぐにはまず、「忍耐」しかないのでしょうね。
仏教エピソード⑭「怒ったっていいことない」
怒ったっていいことない。わかっちゃいるけど止められない。 まずは怒りを無くすことより、怒りのありように目を向けてみましょう。摩擦から学ぶ怒り。
仏教エピソード⑬「水と欲」
考えてみれば、人に欲望があるのは当たり前。それは、井戸に水があるようなものです。もし井戸に水が無ければ、井戸はどうなるのでしょうか? もし人に欲が無ければ、人はどうなるのでしょうか?
仏教エピソード⑫「第二の矢」
人は生きている限り、心は動き感じます。まるで水面に波紋がおこるように、揺れ動きます。水に波が立つのはあたりまえ。心が波立つのも当たり前のこと。仏教は人間誰しもが持つ当たり前を、決して否定しているわけではありません。
仏教エピソード⑪「福田(ふくでん)」
「人に仏法を伝えることより、他にやるべきことがあるんじゃないか」私自身も自分のやっていることに自信が無くなることがあります。でも法衣をかける私にお釈迦さんが励ましてくれます。どんな仕事も、福の田んぼに違いない。そこに布施の行がある限り。
仏教エピソード⑩「古城に至る道」
仏法だとか、仏の教えだとか、真実だとか、悟りだとか。そんな言葉を聞くと何やら崇高なイメージが浮かび、私達凡人には及ばない特別なものを想像してしまいます。しかし、決して特別なものではありません。それはもともとあったもの。
仏教エピソード⑨「灯火」
自己を見つめる。そこにはいろんな自分がいる。自分のことをわかっているつもりで、実は全然わかっていない自分もそこにいます。一番身近な自己に目を向ければ、そこにはたくさんのヒントが転がっています。
仏教エピソード⑧「答えない答え」
「わからないことはわからないままに」それはとても深みのある言葉です。私達はわからないことがあってあたりまえ。その当たり前に気づかなくなるほうが、かえって怖いことなのかもしれません。
仏教エピソード⑦「答えない」
「毒矢の喩え」として有名なお話。いくら頭の中で考えても、わからないことはあります。とりあえずやってみることで、わかってくることもあります。やるべきことからまず行っていく。このエピソードはそのことを私に教えてくれました。
経典(お経)について
お経の語源 ”sutra”、経典の成立過程とその歴史をまとめました。
仏教エピソード⑥「ソーナさんの琴」
中道。それは仏教を理解する上では欠かせない教えです。そしてそれは仏典を開かずとも、身のまわりのことから伝わってくる教えでもあります。
仏教エピソード⑤「食いしん坊な王様」
仏教の修行は特別なものではありません。むしろ私達の身近な出来事としっかりと結びついています。例えば、食事もそのうちの一つです。
仏教エピソード④「苦行を捨てる」
「お釈迦さんって苦行によって悟りを開いたんでしょう?」いえいえ、それは大きな誤解です。確かに苦行はしましたが、お釈迦さんはその苦行を捨てました。
仏教エピソード③「お釈迦さんの青年時代」
「仏教ってどんな教えなの?」その答えは「お釈迦さんはなぜ出家したのか」を考えれば自然と見えてきます。
仏教エピソード②「頑張り屋のアヌルッダさん、休んでください」
頑張ることは大事。休むことは大事。どっちかだけが正しいなんてことはない。「正しい」とはどういうことなのか? 今でもそれを考えさせてくれます。①「福の道」とはセットの話です。
仏教エピソード①「福いの道」
欲望を無くす、煩悩を滅する。仏教に対してそんなストイックなイメージを抱いていた私に「そんなものじゃないよ」と教えくれたのがこの話。私とっては、凝り固まっていた先入観をほぐし、仏教に対する見方を変えるきっかけとなった思い入れのあるお話です。

注目エピソードTOP10

仏教エピソード㉞「子供を亡くした母親キサーゴータミー」
このキサーゴータミーの話には学ぶべきところがたくさんあります。その中で特に私が感銘を受けたことが、当たり前のことに気づく事で彼女が救われたことです。当たり前のことに気づく大切さを教えてくれます。
仏教エピソード④「苦行を捨てる」
「お釈迦さんって苦行によって悟りを開いたんでしょう?」いえいえ、それは大きな誤解です。確かに苦行はしましたが、お釈迦さんはその苦行を捨てました。
仏教エピソード⑫「第二の矢」
人は生きている限り、心は動き感じます。まるで水面に波紋がおこるように、揺れ動きます。水に波が立つのはあたりまえ。心が波立つのも当たり前のこと。仏教は人間誰しもが持つ当たり前を、決して否定しているわけではありません。
仏教エピソード㉝「四の馬」
四種の馬。「この四頭のうち、どの馬が一番良い馬なのか?」このエピソードを読んで、そう考えなかったでしょうか。しかし、そのような理解は、どうやら勘違いだったようです。何にせよ、仏道ちかきものは、かならずこの話をきくことがあるはずです。
仏教エピソード㉓「縁りて起こる」
仏教で用いられる「縁起」の本来の意味。当たり前の事なんだけど、当たり前なことほど気づかないものなのかもしれません。そしてその当たり前の中にこそ有り難い事、大切なことが隠されているのでしょう。そう思える根拠がこの話の中にあります。
仏教エピソード㉒「善き友」
善き友を持ち、良き仲間がいるということは、修行の半ばではなく、その全てである。善い知識とは、言葉や文字で表された単なる「事柄」ではなく、本当に善い知識とはきっと「人」そのものにあるのでしょう。
仏教エピソード⑰「筏の如く」
「筏を担ぐ人?」「そんな奴いるわけがない!」いやいや、誰もがやってしまいがちなんです。筏から学ぶ仏法。たとえ大事な教えでも必要とあらば捨てなさい。仏教ならではのエピソードをご紹介します。
仏教エピソード⑦「答えない」
「毒矢の喩え」として有名なお話。いくら頭の中で考えても、わからないことはあります。とりあえずやってみることで、わかってくることもあります。やるべきことからまず行っていく。このエピソードはそのことを私に教えてくれました。
仏教エピソード㉑「許す」
心が黒いだけの人間もいなければ、白いだけの人間もいない。争いを起こすのは何も人間の黒さだけとは限りません。人間の白さもまた争いを生む原因となりうること教えてくれました。
仏教エピソード㉟「大事な当たり前」
諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教。七仏通戒偈は、お釈迦さんだけではなく、仏教で代々共通して保たれ、仏教の思想が要約された詩偈とも言われています。良い事、悪い事とは何なのでしょうか。

By chisho

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最近は自身のブログサイトでこちらを更新しています。

仏教トーク|お経の内容をチャットのトーク風にアレンジ

仏教経典の内容をチャットのようなトーク(会話)形式にして創作した記事です。お釈迦さんや弟子達の仏教について会話集になります。

仏教トーク|仏教経典チャット風会話訳
古いお経の内容をチャットのようなトーク(会話)形式にして創作した記事。お釈迦さんや弟子達の仏教について会話集になります。実在するお経を参考にしており、それぞれ参考にしている出典元があります。「え?お経ってこんな内容の話してたの?」という発見を皆様と共有できれば幸いです。

参考文献

 仏教エピソードは以下の文献を参考に致しました。

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