エピソード(雑阿含経巻第2-37)
ある時、祇園精舎にて、お釈迦さんは弟子達にこのような話をしました。
「私は世間とは、論争わない。しかし、世間は私と論争う。それは何故でしょうか。
もし、【法】のままに語る者は、世間とは論争うことはありません。
もし、世間の知識人達が『有』と言うのならば、私もまた『有』と言うでしょう。
これはどういう事かといいますと、あらゆるものは変化しています。
あなたの目の前にあるもの、あなたの目に映るものの全ては、変化しています。また、私達が心や思考と呼ぶもの、胸の内、頭の中といえども、あらゆるものは変化しています。
これら変化なる【法】を世間の知識人達が『有』と言えば、私もまた『有』と言います。
そして、もし、世間の知識人達が『無』と言えば、私もまた『無』と言うでしょう。
あなたの目に映るもの、あるいは、胸の内、頭の中。所謂、【法】は移り変わる事なく常に正しく在り続けるというのならば、そんな【法】は『無』い。
これが、世間の知識人達が『無』と言えば、私もまた『無』と言うということです。
世間には、世間の【法】があります。
私はまた自ら知り、自ら気づいて、人の為に分別し、言葉を選び、説明して、表現しようとしています。
しかし、世間の人の中には、【法】について、知らない人がいます。見ようともしない者もいます。
でもそれは、私のせいではありません。
あらゆるものは変化するのですから。
目に映るすべてのもの、そして、人の心も思考も変化するのですから。
それを私が、一体、どうすることができるでしょうか」
メッセージ
「悟りはあるといえばあるのですよ。そして、ないと言えばないんだよ」
この話を読んだとき、そんな老師の言葉を思い出しました。
以前、記事にしましたが、仏教において、「法」には様々な意味が込められています。
翻訳しようと思えば、法と読めなくもありません。
もちろん、他にもいろんな読み方、捉え方ができるのが【法】という言葉です。
ざっくりと、私なりに整理した意味の分け方が以下の通りです。
- 教え
- 法則
- 事物
- 全て
- reality(真実・事実)
実際に、経典の中に「法」という言葉はよく見かけますが、今回のこの話でも良く出てきました。ここでも、いろんな読み方、いろんな捉え方できます。
たとえば、法、法、法、法、法、法、法などなど……。
ただ、特定の意味に翻訳してしまうと、限定的な読み方しかできそうになかったので、今回はあえて「法」という言葉を訳しませんでした。
こうして翻訳する際に思うのですが、人が物事を理解しようとする時、分かろう、分かろうと努力するあまり、文字通り、物事を分けて、細分化して、理解しようとする傾向にあります。
しかし、そのせいで、かえって見えなくなってしまうこと、本当に理解しなければならないことを見失ってしまうことがあるのだと思うのです。
例えば、「悟りってあるんです? 悟りってないんですか?」というように、悟りについても、話題になることがあります。
しかし、そうやって、有るか、無いかに分けて考えるほど、本来の理解から遠のいているように私は思うのです。
「あらゆるもの、今、目の前に有るものも、いずれ無くなります。ならばそれは『有』なのでしょうか。『無』なのでしょうか」
きっとそのような質問と同じなのでしょう。
それぞれ、柔軟に考えながら、お読み頂ける幸いです。